航海日誌|第5話「オリオンの栞」

船の中央付近には、三層吹き抜けになった円形のライブラリーがある。今夜、私はずっと気になっていたそのライブラリーに足を向けることにした。

使い込まれて鈍く光る真鍮のノブに手をかけ、ぐっと扉を押し開ける。静まり返った夜の廊下に乾いた蝶番の音が鳴り響いた。中に入ると、古い紙とインク、そして微かな潮の匂いが混ざり合った独特の空気が鼻腔をくすぐる。天窓から射し込む月光が床に淡い輪を落とし、その光に照らし出されるようにして、重厚な本棚が浮かび上がっていた。そこには世界中の物語だけではなく、かつての航海士が残した羊皮紙の星図や、名もなき詩人が置き去りにした草稿の束が眠っている。どれも静かに波の音を吸い込みながら、何十年もの時間を過ごしてきたものだった。

書棚の間を進むと、ふと一冊の本が目に留まる。それは、最下段の隅の方に、まるで誰かが忘れていったかのようにひっそりと置かれていた。背表紙に文字はない。深い海の色をした布張りの装丁。手を伸ばし、指先でその表面に触れると、微かに波の振動が伝わってきた。

「その本は、読み手によって言葉が変わると言われています」

司書が影のように現れ、穏やかな声でそう教えてくれた。眼鏡の奥の細められた目元には、幾つもの夜をこの部屋で過ごしてきた者だけが持つ、深く穏やかな年輪が刻まれている。その佇まいは、まるでライブラリーにある古い調度品のひとつのようで、声をかけられるまでそこに人がいることすら気付かせない、独特の静けさを纏っていた。

「人が旅に出るのには理由があります。その理由の数だけ、物語の姿も変わるのでしょう」

私は小さく頷き、その一冊を大切に抱えて自分の部屋へと戻った。

テーブルの上の小さなランプを灯し、部屋に風を通そうと窓を開けた。そこに地上のような街の明かりはない。自分が世界の果てに一人きりで取り残されたような心細さと同時に、不思議な心地良さがあった。ただ船が立てる白波の音だけが、世界の拍動のように規則正しく響いている。私は椅子に深く身体を沈め、しばらくその海を眺めてから、手元の「海色の本」をゆっくりと開いた。

都会にいるときは、いつも結末を急いでいたように思う。仕事の合間に、あるいは騒々しい電車の座席で、次のページに何が書かれているのか、この物語がどう終わるのか―― それは、常に時間に追われ、急き立てられていた私の余裕のなさをそのまま映し出していたのかもしれない。何かを読んでいるようで、きっと自分自身の焦燥を読んでいただけだったのだ。

そんなことを考えながらぱらぱらとページをめくっていると、突然、目の前の活字がふわりと浮き上がった気がした。まるで文字が呼吸を始めたみたいに。「目の錯覚かな…」。そう思い空を仰ぐと、夜空の真ん中にオリオン座が懸かっていた。凍てつく冬の星ではない。どこか旅人を見守るような光を放ちながら、悠然と座している。そのあまりに見事な美しさに、思わず右手を空へと伸ばした。

何万光年も前の光が、今、私の網膜に届いている。星の運命に比べれば、人間の命など瞬きほどでしかない。そして、地上での私の悩みや感傷など、この時間の奥行きの中では、物理的に無視できる程度の微細なものに過ぎない。

私はほんのいたずら心のつもりで、人差し指と親指でその蒼白い光を摘み取る仕草をした。指先を合わせた瞬間、なぜだか胸の奥がじんわりと熱くなる。手のひらを開けば消えてしまいそうな、その幻のような光を、私は壊れものを扱うようにして、読みかけの行間の隙間にそっと挟み込んだ。

「おやすみなさい、オリオン」

私は星の光を栞にしたまま本を閉じ、波の音を子守唄に、深い眠りへと落ちていった。夢は見なかった。ただ、海に身を委ねるような、心地よい眠りだったと思う。



翌朝、鳥たちの囀りの代わりに、水平線から昇った金色の朝日が私の瞼を叩いた。眩しさに目を細めながら、昨夜の記憶の断片を手繰りよせる。

頭がまだぼんやりとしている。夜の海。オリオン座。空から摘み取った星。本に挟んだ光の栞――。思い出せるのは、そんなおとぎ話のような記憶だった。船の上で過ごす夜は、時折そういう不思議な夢を人に見せてくれるのかもしれない。きっと夢を見ていただけだ。そう言い聞かせながら、自分の空っぽの手のひらを眺めて、小さく苦笑する。やはり、夜空に伸ばした手には何も残っていない。現実とはいつもひどく素っ気ないものだ。

諦めのような気持ちで視線を落とすと、膝の上に置いたまま眠ってしまったあの本が、ブランケットの皺に埋もれるようにして佇んでいた。私はゆっくりとそのページをめくってみた。

するとどうだろう。昨夜オリオンを挟んだその行間から、さらさらと銀色の、淡い光の粉がこぼれ落ち、私の手のひらを白く染めたのだ。それは太陽の眩しさではなく、たしかに昨夜、私が空から摘み取った星の残光だった。

光の粉は、古いインクの文字を優しく包み込み、物語の情景をまるごと塗り替えていく。昨日この本を開いたときは、どこか悲劇の予感を孕んでいた。大切な何かを失い、あてもなく彷徨う「孤独な旅」を綴る一行があったはずだ。けれど、星の光が染み込んだ文字たちは、今やあたたかな体温を持って脈打ち、未来への希望が朝露のように瑞々しく溢れ出している。

私は光の跡を指先でなぞった。星を栞にしたその瞬間、物語は私の手を離れ、宇宙と溶け合ったということだろうか。人間がどれほど不条理な悲しみを抱えようとも、夜空の星はただ静かに照らし返してくれる。そういうことなのだろうか。

朝食を運んできたクルーが、私の手元で舞った光の粉を眺めて微笑んだ。

「この船では、本はただ読むものではありません」

彼は白いテーブルクロスを整えながら言葉を続けた。

「星や海、あるいはご自身の過去と対話しながら、あなただけの物語として完成させていくものなのです。人生の航路と同じですね。過去の傷も、これからの未来も、読み手の心一つで、いつでも書き直すことができるんですよ」

彼が去った後、言葉の余韻を感じながら深く息を吸い込んだ。悲しみを恐れる心はもうどこにもない。昨夜のオリオンが教えてくれた光の旋律が、私の手元で静かに響き続けている。

読み終えた本を返しに、再びライブラリーへと向かった。あの書棚の隅に、海色の本をそっと戻す。心なしか、その背表紙は昨日より少しだけ明るい色に変わっているように見えた。

船のライブラリーには、ときどきこうして「光を宿した本」が戻ってくるという。誰かが夜空の断片を挟み、誰かが朝の光を閉じ込める。そうして物語は、幾千もの旅人の手によって書き直され続けていくのだろう。

地上での日常は、他人が決めたルールと速度で動いているように思えてしまって、ときに自分の人生すら他人に委ねてしまいそうになる。けれど、この不思議な船の旅で私は知った。自分の物語にどんな栞を挟むのか、その栞をいつどのページに挟むのかは、いつだって自分自身が決めていいのだと。

私はデッキに出て水平線の向こう側へと視線を移した。船は今日も、新しいページをめくるようにして、キラキラと輝く海の上を進み続ける。

 


この航海日誌は、月に一度更新される連載小説です。

ここは、言葉にならない想いを星屑に変えて、大切に保管しておくための場所。 物語をめくるたび、あなたの心に穏やかな凪が訪れることを願っています。

次の航海まで、毎日が優しい光に包まれますように。
 

 

写真=中村風詩人
文=帆志麻彩



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