航海日誌|第4話「夢の翻訳室」

その朝、私は不思議な喪失感と共に目を覚ました。昨夜見たはずの夢が、指先の間をすり抜けて記憶の端からこぼれ落ちていく。大切な何かを伝えようとしていた誰かの声、あるいは、どこか懐かしい風景。それらは輪郭を失い、ただ切なさだけを心に残して消えてしまったのだ。

朝食を部屋に運んでくれたクルーが、私の曇った表情を見て何かに気付いたようだった。 

「… 昨夜の夢を、どこかに置き忘れてこられたようですね。もしよろしければ、6階後方にある "夢の翻訳室" を訪ねてみてください。失くした言葉の断片が見つかるかもしれません」

夢の翻訳室――。この船に乗る前の私なら「何を言っているんだろう」と首をかしげていたかもしれない。けれど、論理だけでは説明のつかない体験を重ねてきた今の私は、その名を聞いた瞬間、胸の奥で小さな期待が灯るのを感じた。

早速教えられた場所へと向かってみる。すると、そこは船の華やかな装飾とは一線を画した、古い書庫のような屋根裏部屋だった。壁一面には無数の音の溝が刻まれた銀色のディスクが並び、部屋の中央には朝顔のような大きなラッパを持った蓄音機が置いてある。

「ようこそ。ここは、あなたの眠りが紡ぎ出した物語を地上で使える言葉に翻訳する場所です」

奥から現れたのは、度の強い眼鏡をかけた司書のような佇まいの女性だった。彼女の手元では、目に見えないほど細い銀の糸が紡績機のようにくるくると回っている。

「夢とは心が自分自身に宛てた手紙です。けれど、目が覚めるとその文字は透明になってしまう。私たちは、その透明なインクを、心で読める文字へと現像するお手伝いをしているのです」

促されるまま、蓄音機の前に置かれたベルベットの椅子に腰を掛けた。彼女がそっと私に手をかざすと、蓄音機のラッパからシュルシュルと摩擦音が流れ始める。

それは古い音楽のようでもあり、遠い氷河が軋む音のようでもあった。次第に私の脳裏に鮮やかな断片が蘇ってくる。幼い頃に壊してしまったおもちゃの色。言いたかったけれど飲み込んでしまった「ごめんね」の気持ち。そして、自分でも気付かないふりをしていた「本当はこう生きてみたい」という小さな野心。

「……これ、は…」
「言葉にできなかった想いたちが、夢という形を借りてあなたに会いに来たのです」

翻訳機の針がディスクの上を滑るたびに銀の糸が編み上げられ、一枚の薄い紙となって吐き出されていく。そこには、私の筆跡ではないけれど、私の声でしか再生できない言葉が綴られていた。

『あなたは、誰かのために光る星ではなく、自分を灯すための光でいていい。その光が、結果として誰かの夜を照らすのだから』

その一文を読んだ瞬間、目の前の彩度が一段上がったような気がした。誰かのために、組織のために、家族のために。それは決して悪いことではない。けれど、そのために自分の光を削り、いつの間にか芯が細く小さくなっていたことに、夢の中の私はとっくに気付いていたのだ。

"夢の翻訳" とは、単に内容を思い出すことではない。それは、自分が自分に隠していた「本当の願い」を、白日の下にさらす儀式だ。時間からも社会からも切り離されたこの場所だからこそ、私はようやく、自分自身の本音と、本当の意味で正対することができたのかもしれない。

翻訳室の扉を開けると、視界いっぱいに抜けるような青空が飛び込んできた。丸窓に縁取られたその景色は、まるで異世界へと続く入口のよう。私は思わず息を呑んだ。

司書のような彼女の後についてデッキに出ると、手に持っていた紙は潮風に触れた瞬間きらりと輝きを帯びた。それは光の飛沫となって舞い上がり、私の胸の中へと吸い込まれていった。

「もう紙に書いておく必要はありませんね。その言葉はあなたの一部になりましたから」

彼女はいたずらっぽく笑った。 

私は深く息を吸い込み、デッキの手すりに手をかけた。失くしたと思っていた夢の断片は、今、形を変えて私の中を流れている。元の生活に戻れば、また誰かの鏡が私を映し出そうとするだろう。けれど、今の私は知っている。私の内側には、誰にも消せない自分だけの光が灯っていることを。

船は、午後の柔らかな光の中を、さらに深い凪の海へと進んでいく。かつては何もないことがほんの少し怖かった水平線の向こう側に、まだ見ぬ自分との出会いを予感していた。



この航海日誌は、月に一度更新される連載小説です。

ここは、言葉にならない想いを星屑に変えて、大切に保管しておくための場所。 物語をめくるたび、あなたの心に穏やかな凪が訪れることを願っています。

次の航海まで、毎日が優しい光に包まれますように。
 

 

▼小説のモチーフになった作品
写真=中村風詩人
https://atsea.day/products/yume-no-rinkaku

▼著者の執筆記事一覧
https://atsea.day/blogs/profile/maaya-hoshi 

▼その他のお話
航海日誌|第1話「真珠の霧、香りの島」
航海日誌|第2話「虹のふもと」
航海日誌|第3話「星屑のレストラン」
航海日誌|第5話「オリオンの栞」