航海日誌|第2話「虹のふもと」

船の上を流れる時間は、カレンダーに刻まれる数字とは少し違う。それは、丁寧に仕込まれた果実酒が瓶の中でゆっくりと色を深めていくように、静かに熟成していくものだ。そう気付いたのは、Sanctuary号が "香りの島" を離れて数日が経った頃だった。私の体からは、いつの間にか都会の無機質な匂いが消え、代わりに柔らかな海風と、あの島でお裾分けしてもらった陽だまりのような残り香が、肌に心地よく馴染んでいる。
テラスの椅子に座り、お気に入りのハーブティーを傾ける。この船のクルーたちは乗客の心の空模様を読み取る魔法使いのようだ。彼らが運んでくれるカップには、時折「明日の予感」という名の不思議なスパイスがひと振りされている。それを一口飲むたび、胸の奥に溜まっていた重たいものが深い海へとゆっくり沈んでいくような、不思議な感覚があった。
ここに来るまでの私は何者かになろうとして、自分自身の輪郭を鉛筆の先みたいに鋭く尖らせていたように思う。けれど、この船が日常という重力から私をそっと引き剥がしてくれたおかげで、今は心の中に穏やかな凪が広がっている。
その日の午後、短い夕立が通り過ぎたあとのことだった。太陽が再び顔を出し、雨に濡れたデッキを眩しく照らしたその瞬間。前方の水平線に、天を支えるほどの大きな光の柱が立ち上がった。それはこれまで見たどんな写真や絵よりも鮮やかで、たしかな質量をを感じさせる「虹のふもと」だった。
陸で見かける淡いアーチではない。天から海へと惜しみなく流し込まれた七色が光り輝きながら、私たちが進む航路の真ん中にいるのだ。まるで空を割って降りてきた神の梯子のようでもあり、世界の終わりと始まりを繋ぐ光のようでもあった。
ほどなくして、船内にアナウンスが流れる。
「皆さま、前方の海面をご覧ください。まもなく本船は、色彩の源泉、虹の生まれる場所へと進んでまいります。海の上でしか出会えない奇跡をお楽しみください」
陸にいるとき、虹は決して手が届かない憧れだった。追いかければ追いかけるほど遠ざかる光のいたずら。この船は今からその「叶わないはずの夢」へ、真っ直ぐに進もうとしている。私は胸の高鳴りを抑えきれず、手すりを強く握りしめた。そして、私のまわりにいる誰もが、その夢を前に期待の表情を浮かべていた。
船首が虹の最も濃い光に触れたとき。ふっと世界が軽くなったような気がした。
七色の光が船の壁を踊り、デッキは魔法にかけられたかのように色彩のシャワーに包まれる。私は目を疑った。虹の柱の中では、海水は液体であることをやめ、無数の小さな光の結晶となって宙を舞い始めたのだ。
クルーたちは空から降り注ぐ虹の欠片を薄いグラスで丁寧に掬い、乗客たちへ光のカクテルとして振る舞っている。手渡されたカクテルを一口、喉に滑らせる。ひんやりとして、ほんのり蜜のような甘い香りがした。
ふとグラスを持つ自分の手に視線を向ける。虹の光を浴びた指先はわずかに透き通り、その中を光の粒がさらさらと流れていた。都会で無理をして身に纏っていた重い鎧が、虹の色彩に晒され、美しい光の鱗となって、一枚、また一枚とはがれ落ちていく。「私」という存在が一度バラバラに解かれ、純粋な色そのものに戻っていくような感覚。この上なく贅沢で、羽が生えたように自由で軽い。けれどそれは、拠り所を失くした、少しばかりの心細さを伴った軽さだった。
隣では、老婦人が虹の雫を織り込んだようなショールを肩にかけ、少女のように目を輝かせて笑っていた。その笑い声さえも、小さな黄金の鈴となって空へ舞い上がり、虹のグラデーションの一部へと溶けていく。
やがて船が虹を通り抜けると、光の柱は役目を終えたかのように淡く滲んで消えていった。あとに残されたのは、以前よりも少しだけ鮮やかさを増した大海原だけだった。
客室に戻り、鏡の前に立つ。そこに映る私はかつての険しい表情を失い、頼りなげで、子どもみたいな目をしていた。私はお気に入りのノートを取り出し、虹の余韻が残る指先で最初の一行を綴った。
「この船のチケットは、今の自分を一度手放したいと願った者だけに届く、虹の招待状だったのだ」
船は穏やかな夕暮れを背に、次の寄港地を目指して静かに舵を進めていく。
この航海日誌は、月に一度更新される連載小説です。
ここは、言葉にならない想いを海に預けて、大切に保管しておくための場所。 物語をめくるたび、あなたの心に穏やかな凪が訪れることを願っています。
次の航海まで、毎日が優しい光に包まれますように。
▼小説のモチーフになった作品
「虹のふもと」写真=中村風詩人
https://atsea.day/products/nizi-no-fumoto
▼著者の執筆記事一覧
https://atsea.day/blogs/profile/maaya-hoshi
