35年の旅を終えて。にっぽん丸が海に残した最後のラブレター
航海というものは、どれほど長く美しいものであっても、いつかは終わりの時を迎える。
2026年5月10日、商船三井クルーズが運航する客船・にっぽん丸が、長い歴史に幕を下ろした。35年という歳月の中で、にっぽん丸が走行した距離は530万kmにも及ぶ。地球およそ133周するのと変わらない、その果てしない旅路のフィナーレ。誰もが最後を惜しむかのように、ファイナルクルーズの予約はまたたく間に埋まり、キャンセル待ち状態となった。
引退前夜、横浜港への最後の帰港を控えたにっぽん丸は、相模湾に入っていた。その静かな海に、ある航跡が残される。船舶の現在地を伝える画面の上で、一本の線がゆっくりと、大きなハートマークを形作っていったのだ。それはまさに、にっぽん丸が海のキャンバスに残した「最後のラブレター」のようだった。
このエピソードを初めて耳にする人は、「大きなクルーズ船で、こんなに綺麗なハートが描けるものなのだろうか」と、不思議に思うかもしれない。
もちろん、船長が自らの勘だけを頼りに描いたわけではない。航海士たちが事前に電子海図の上で潮の速さや風の向きを計算し、緻密な航路をプログラムして、船はそのデータを正確にトレースするように動いていく。それが現代の航海だ。
だからといって誰にでも描けるものではない。数万トンという大きな船を海の上で旋回させるには、繊細なコントロールが求められる。ベッドで眠るお客様を起こすことなく、なめらかに、時間をかけて描いていく。自分たちが愛のサインの上にいることすら気付かないほどの静かな航海。そこにあるのは、熟練の操船技術と、優しい配慮に他ならない。
実は、この「相模湾のハートマーク」は今回限りの特別なものではなく、以前から、歴代の船長や航海士たちの遊び心によって、何度も海に描かれてきた。
世界中が感染症の渦に巻き込まれ、クルーズ船がどこにも行けなくなっていた苦しい時期にも、にっぽん丸は変わらずこのハートを描き、乗客やファンを楽しませてきた。遠くへは行けない、さまざまなことが制限された不自由さのなかでも、にっぽん丸が私たちに贈り続けてくれたのは、変わらない温かいおもてなしの精神だった。世界が日常を取り戻し、再び世界中の海を巡るようになってからも、このハートはにっぽん丸とファンとを繋ぐ、定番のサインであり続けたのだ。
そして迎えた、役割を終える最後の夜。にっぽん丸は、慣れ親しんだ相模湾の海に、今度は「二つのハート」を重ね合わせるようにして描き入れた。
公式にその理由が明文化されているわけではないが、引退当日の横浜港で船長が口にした35年間の感謝の重みが、その答えをそっと教えてくれているようだった。あの夜、並んで描かれたふたつのハートは、にっぽん丸がこれまで出会ったすべての人へ捧げた「感謝」と、新しい海へと繋がっていく「未来」を乗せた、これ以上ない粋な演出だったのだろう。長年受け継がれてきた物語の美しいエピローグを、これまでで最も愛を込めて書き加えるような、温かく、少し切なくなる光景だった。
船が通り過ぎたあとの海には、白く泡立つ航跡が残る。けれど、それは数分もしないうちに波に洗われ、平穏な潮の流れへと溶けて消えてしまう。海はいつだって、何事もなかったかのように元の姿に戻っていく。にっぽん丸がそこにいたという確かな証さえも、優しく包み込んで隠してしまうかのように。
引退の日、早朝の大さん橋には大勢の人々が集まり、その最後を見守っていた。先に入港していた三井オーシャンフジの前に着岸したにっぽん丸。その並びは、まるで時代の引き継ぎを意味しているように見えた。新時代の船へと未来を託す、美しい世代交代――外側にいるメディアやそれを見た人は、綺麗な言葉でこの一幕をまとめるかもしれない。
けれど、あの日あの場所で、にっぽん丸を見つめていた人々の胸にあったのは、そんな爽やかな感情だけではなかったのではないだろうか。新しくやってきた船がどれほど立派であっても、にっぽん丸が歩んできた35年間や、小さな日本船ならではの心配りは、なかなか他で埋めることはできない。長年共に旅をしてきたファンや乗組員にとって、この船の代わりなどどこにもいないということは、あの日の大さん橋の空気が何よりも雄弁に物語っていた。
「どうして引退しちゃうんだろうね」「次の船もにっぽん丸を造ってほしかったな」 大さん橋のデッキで肩を寄せ合うファンの言葉を聞きながら、私は心の中で頷いた。そして、こうも思った。
にっぽん丸は、これまで乗せてきた多くのお客様の記憶の中に、そして、その旅を支えてきた乗組員の皆さんの記憶の中に、これからもずっと生き続けるのだと。だから、にっぽん丸はなくならないのだと。
船は去り、海は再び静かな波を繰り返している。けれど、私たちがまたどこかの海を眺めるとき、そこにはひとつの美しい風景が重なって見えるだろう。旅を愛した一隻の日本船が、最後のラブレターとして残した、たしかな軌跡を。
「ありがとう、にっぽん丸」
一時代を築き、素晴らしい航海を終えたにっぽん丸のように、私たちはまた、それぞれの人生の旅路へと戻っていく。
写真・文=帆志麻彩
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