漂いながら、生きる旅。#5「海底で呼吸する」


生きる、はたらく、つくる。人生そのものを旅路と捉えた「過程」の記録。 
日常の中で生まれる気づきや心の揺らぎをたどり、書き留めるエッセイ。
 
寄稿者=大中原春菜(グラフィックデザイナー)

旅をしていないはずなのに、なぜかずっと「旅」をしている感覚がある。

日々を生き、はたらき、つくること。
その繰り返しの中で、私たちは知らないうちに、幾度となく選択をしている。

自分にとって何が大切で、何を大切にしたいのか。何を選び取り、何を手放すのか。自分の言葉や行動に対して責任を持ち、決断し、取捨選択をする。

遠くへ行かなくても、心はいつも少しずつ漂流している。そんな人生という旅の途中で、立ち止まりながらどう漂いながら生きるのかを見つめつつ、アートと日常のあわいにある心の動きを記録する「灯台の時間」のような、小さな記録です。



「期待に応えられる人」であろうとしていた。

あなたってこういう人だよね、という周囲の期待通りに振る舞うことは、きっと悪いことではなかったと思う。むしろ、その役割によって傷つくことから守られていた場面もたくさんある。求められる姿だけを演じていれば、それとなく人と繋がることもできるし、それとなく上手くやれる。期待の範囲からはみ出さないようにしていれば、そこまで失望されることもなく、平穏にやり過ごせることも多い。

気づけば本音よりも、求められる正解を優先することに慣れてしまっていた。考えなくていい、変化しなくていい、現実から目を逸らしている方が圧倒的に楽だ。刺激を求め続け、お酒を飲み、酔いで誤魔化し、自分を雑に扱うことに慣れ、次第に痛みに鈍感になっていく。外側から埋めることに躍起になるが、もちろん何も埋まらないし解決もしない。所謂現実逃避だ。むしろ虚無感と孤独感が増して、無限ループにはまっていく。

なぜ人間は、その「楽さ」へ引き寄せられてしまうのだろうか。直視したくも受け入れたくもないが、本質は案外すぐに見える。悩みのほとんどは人間関係だというが、根本を辿ると確かにすべてはそうであると、20歳の頃、社会に出てすぐに腹落ちしたのを覚えている。

本当はしんどいのに、「大丈夫」と言う。
悲しくて泣きたいのに、「泣いたところで何も解決しない」と感情を無かったことにする。
違和感を覚えているのに、「気にしすぎかもしれない」と飲み込む。
相手が感情的になり暴れ出す状況に、「ご機嫌を取れば穏やかさが戻る」と感情処理を請け負う。
問題ごとに対して、「自分のせいとして責任ごと巻き取ってしまう方が早い」と相手の課題まで背負う。
嫌なはずなのに、「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と自分を納得させる。

そうして少しずつ、自分の感情にも痛みにも鈍くなっていく。顔には借り物の「笑顔」が張り付く。他人からの評価や承認がないと、求められ続けていないと、泡沫のように自分の輪郭が消えていく感覚だった。

厄介なのは、渦中では「なんか違和感がある」としか思えず、1週間くらい経って、ふとした瞬間にようやく心に棘が刺さっていることに気づいたりすることだ。時差があると、その感情は行き場をなくす。抜いた棘は、相手が目の前にいない場面では返すこともできず、ただ握りしめることしかできない。

役割を演じ続けることは、とても便利だ。衝突を避けられるし、嫌われにくい。いい人(都合のいい人)として扱われることも多い。その代わりに、自分自身との距離は遠くなっていく。

本当は何が好きなのか。何を嫌だと感じるのか。誰といると安心できるのか。どんな人生を生きたいのか。「どう見られるか」を優先し続けるうちに、どう在りたいかがわからなくなっていく。

以前の私は、歩み寄ることと迎合することの違いも曖昧だった。対話が成立しない場所に長く居続けるほど、この境界は簡単に崩れていく。

歩み寄りは、シーソーと同じだ。どちらか一方だけが距離を詰めるだけでは、どちらか一方だけに負担がかかる状態になり、バランスが崩れてお互い近寄ることはできない。双方が同じように、バランス感覚を持ちながら歩み寄らなくては均衡は保たれない。相手の感情や背景を想像すること、すなわち思いやりを持つことが大切なのだと思う。

被害者でいることのメリットは、変わる努力をしなくていいことにある。同情を誘い、悲劇のヒロインという特別扱いにより、注目を浴びることができてしまう。また、相手が可哀想な人を演じ続ける限り、こちらが救済者になり続けなければならない。そして同情することは、相手の変わらないという意思を助長することにもつながる。優しさは、「本当の優しさ」でないと、ときには凶器にもなる。

役割を脱ぐことは、少し怖い。期待に応えられなくなるかもしれない。嫌われたり、離れていく人もいるかもしれない。そして、いい人ではいられなくなるかもしれない。

けれど、不思議なことに、役割を手放していくほど深く呼吸ができるようになっていく。手放しは喪失ではない。次に進むための、余白をつくる行為なのだと思う。

誰かに好かれるためではなく、自分に嫌われないために選ぶこと。本音をなかったことにしないこと。違和感を誤魔化さないこと。「本当はどうしたい?」と、自分自身に問い直すこと。

不安はいつだって、自分が生み出している。それは、過去と未来に執着し、今を生きていないことの裏返しだ。

役割を脱いだあと、最初は少しからっぽな気持ちになる。何者でもない素の自分を生きることの恐怖と、謎の喪失感が襲ってくる。ただ、それは自らが生み出した「幻想」であることに気づくのには、そう時間はかからない。その余白にしか、本当の自分は戻ってこないのだと思う。

どこまでが自分で、どこからが他人なのか。
その境界を、ようやく静かに見つめられるようになってきた。

海にも、底がある。
すべての役割を脱いだ先で、ようやく深く呼吸ができる。




Profile

大中原春菜 / アートディレクター・グラフィックデザイナー・ペインター

1995年、東京生まれ。
東京デザイナー学院卒業後、Web広告のベンチャーとデザイン事務所を経て、2024年より自身のクリエイティブスタジオ「noaun(ノアン)」をはじめる。東京を拠点に、ブランディングを軸とした様々な領域のデザインを行う。 日常の心地よい空気感や光をテーマに抽象画をメインとした制作活動や、余白とあたたかみを大切にしたイラストレーションも手掛けている。

noaun.jp

▼著者の寄稿文一覧
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