『雪あかり日記』をめぐる小さな旅
寄稿者:中島ゆう子(写真家)
『雪あかり日記』とは、建築家の谷口吉郎が1938年にベルリンへ渡独した際に過ごした日々を綴ったエッセイ集である。緊迫した情勢の中、寒い冬のベルリンの雰囲気、当時の街の様子や文化、彼の仕事のことなどが丁寧に書かれている。
簡単に本の内容をご紹介したい。
およそ86年前、谷口吉郎は当時建設中だった在ドイツ日本大使館のプロジェクトのため単身渡独。1938年、それは第一次世界大戦後の世界であり、第二次世界大戦の足音がすぐそこに聞こえ、ドイツはヒットラー率いるNSDP(国家社会主義ドイツ労働党、通称ナチス)が政権を握っていた時代だ。
外国人、建築家、そしてドイツの友好国出身の日本人としての視点で当時のベルリンの様子が描かれているが、個人的な日記でありながら、ドイツ、そして世界の緊迫した雰囲気を本から感じ取れる。歴史や戦争といった過去の出来事は、個人が記した日記などが一番当時の様子が分かるのかもしれない。
今回は『雪あかり日記』と筆者のライフワーク「ベルリン・街路からの風景」についてここに綴りたい。
思いがけない『雪あかり日記』との出会い
筆者の個人的な話であるが、『雪あかり日記』との出会いからお話させていただきたい。
2019年春、夫がベルリンに移住した。彼のスーツケースには必要最低限の衣服と、重量制限ぎりぎりまで詰め込んだたくさんの本が詰まっていた。建築、壁画、写真、園庭に関する様々な本の中に、古風なデザインが施された表紙の本、『雪あかり日記』がそこにあった。本をめくると、86年前に1人の日本人男性が寒い冬のベルリンを訪れ、そこで見たもの、感じたことが綴られていた。ベルリン市街戦(1945年)により街全体は焼け野原になり、現在筆者が見ているベルリンと当時谷口吉郎が見たベルリンは、街の景色や匂い、空気が違う。しかし、知っている通りや建築物が文中に登場すると、筆者と谷口吉郎の視点が重なったような、不思議な共感を覚えた。ふとした時に日本のことを思い出し、懐かしい気持ちになる描写が多々あるが、時代が違えど故郷を思う気持ちは変わらない、そういった精神的な些細な共鳴をも感じた。86年の時間を超え、思いがけない様々な出会いを筆者に導いてくれた本だった。
谷口吉郎が見た教会を追って― “ナッサウイッシェ通り【ベルリン・街路からの風景】”
2019年にこの本と出会ってから、冬が来ると自然と本棚から『雪あかり日記』を手に取り、ページをめくっている。在独歴7年目になり3回の引越しを経験すると、昔より少しだけベルリンの地図が頭に入り、以前よりも文中に登場する通りの名前や建築物に敏感になった。
寒くなり始めた今年の10月、『雪あかり日記』を読み始めると、谷口吉郎が当時下宿していた宿と現在筆者が住んでいる自宅が比較的近いことに気がついた。彼はベルリンに着いてすぐのある寒い日に下宿先のすぐそばにある教会へ行く(「うすら寒い日」P9)。「せっかくなら散歩がてら谷口吉郎が見た教会を見てみよう」と思い立ち、持っていた本とカメラをリュックに詰め込み、目的地へ向かった。戦争で焼けてしまってないか、老朽化し改装中ではないか、現存しているか分からないまま、筆者を乗せたバスは最寄駅に近づく。
大きい通りを歩いて行くと、谷口吉郎が描いたスケッチにそっくりな建物が現れた。教会は現存していた。私の胸は高鳴り、抑えきれない気持ちが教会へと足を走らせた。
外壁やドアにそっと触れ、谷口吉郎の気持ちに思いを馳せた。少し高いところにある入り口から広場を見ると、散歩をしている人、保育園へ向かう人、広場の椅子に座り愛犬との時間を楽しむ人、そこには何気ない日常に溢れていた。86年前もきっと同じように人々がそれぞれの日常を過ごしていたのだろう。
1時間ほど広場に滞在し、家路へと向かった。
美しいタイルの装飾が施されている入り口
歴史は人類の長い旅である
谷口吉郎はあとがきでこのように語っている。個人的にとても印象に残っているので、ここでご紹介したい。歴史は人類のながい「旅」である。その旅に、人間は各種の建築をつくりあげ、いろんな花を咲かせている。建築こそ歴史の花であろう。過去の花、現代の花、色とりどりの中で、いつも私の心をひくものは、その建築の美しさにひそむ清浄な意匠心である。私は清洌な意匠の心を求めつつ、ヨーロッパをさまよい歩いていた。(昭和22年あとがきより)
上記の文章を今読むと、面はゆい気がするが、戦火が発火する直前のヨーロッパにいた、若き日の私を支えてくれたのは、建築美の中にこめられた意匠心との接触だった。歴史の切迫した時点であったので、一層感銘を深めたのだろう。(昭和49年あとがきより)
人によって「花」は違うかもしれないが、きっと「清浄な意匠心」があるものが人々の心を惹きつけると思う。絵画や彫刻、海や空、大自然の中に潜む「清浄な意匠心」と出会ったとき、その人の「旅」は前よりきっと少しだけ彩るのだろう。
印象的な影を描く外壁
書籍紹介『雪あかり日記 / せせらぎ日記』
著者:谷口吉郎
出版社:中央公論新社
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『雪あかり日記 / せせらぎ日記』谷口吉郎(中公文庫)
ナッサウイッシェ通り【ベルリン・街路からの風景】は、こちらよりご覧いただけます。中島ゆう子 / 写真家・ビジュアルアーティスト
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