短編小説「またたくヴェールの海で」

寄稿者:風野湊(小説家)

    
 これは私が、月から聞いたお話です。

 ある夜のこと、うつくしい珊瑚海を照らしていた月に、ひとつの椰子の実が物語をせがみました。椰子の実は、波間に浮きつ沈みつしながら太平洋をはるばる越えてきたところで、長旅にすっかり飽き飽きしていたのです。
 あまねく夜を見つめた月は、千一夜をかけても語りつくせないほどの物語を知っていました。世界のどこであっても、かならず月と親しむ誰かがいて、彼らが月を見上げながら思い浮かべた夢もまた、すべて月のものだったからです。かつての友、アンデルセンが贈ってくれた人魚姫の物語を、月は椰子の実に語りました。椰子の実はたいそう喜んで、お返しにと、ある人魚の物語を語ってくれたのだそうです。

 昔々、あるところに、と椰子の実は言いました。
 まぶしい海辺の国から、峻険な山岳の国へと嫁いだ、うつくしいお姫さまがおりました。
 真昼の海を映したような蒼い瞳に、ゆたかに波打つ夜のような黒い髪、金糸銀糸で織りあげられた薄絹のヴェール。婚礼の行列はとてもにぎやかで、山岳の国に暮らす民は、生まれてこのかた一度も見たことがない海というものを、お姫さまが浮かべてみせた微笑みの向こうに見たような思いがしたほどでした。
 故郷から遠いこの地で、さびしい思いをしないようにと、王子さまはお姫さまをよくよく大切にしました。ふたりは仲睦まじく幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。
 お姫さまの秘密を知っていたのは、最期まで、お付きの侍女ひとりだけでした。

 侍女は、名をベルデと言いました。
 ベルデは、お姫さまの輿入れに海辺の国からお供をしたひとりでした。
 生まれてからずっと、波音と水平線が傍らにある地で生きてきた彼女にとって、海が見えない異国で暮らすのは、少々つらいことでした。白雪を纏い、夜明けにはしらじらと金色に輝く山の峰も、空を塞ぐ広大な壁としか思えず、ただ彼女が仕えるお姫さまだけが、海を思い出させてくれるものでした。朝の身支度のとき、ベルデがお姫さまの髪を梳かすと、その長い黒髪から、ほのかに海の香りがするのです。きっと特別に作られた香水に違いないと、ベルデは何年も信じていました。

 ある新月の晩に、と椰子の実は言いました。
 お姫さまの寝室に隣りあう、侍女の控室で、ベルデは刺繍をしていました。
 ちょうど夜番を代わったところで、起きているのは彼女ひとりでした。月明かりはなく、蝋燭の灯りだけを頼りに、一刺し、一刺し、針を進めていると時はまたたくように過ぎます。蝋燭の芯が燃える音がわかるほどに、とても静かな夜でした。
 お姫さまの寝室から、ぱしゃん、と水音が聞こえ、ベルデは手を止めました。
 扉をそっと叩き、声を掛けてみましたが、返事はありません。迷いながらも、ベルデは燭台を手に、扉をほそく開けました。
 寝室はやわらかな静けさに包まれていました。寝台を包む天蓋の厚いカーテンもぴたりと閉じたままです。てっきり、お姫さまが夜中に目を覚まし、水を飲もうとして手を滑らせてしまったのかもしれない、と思ったのですが、水差しはきちんと寝台の傍にありました。
 ベルデが首を傾げつつも扉を閉めようとすると、ふたたび水音が聞こえました。それはさざなみの音にとてもよく似ていました。
 驚いて耳をすませたベルデは、お姫さまの寝息が聞こえないことに気づきました。胸さわぎがしました。足音をひそめて寝台に歩みより、すべらかなベルベットのカーテンに触れました。隙間から垣間見ただけで、そこに誰もいないことがわかりました。寝台は空っぽでした。シーツの上には、かつてお姫さまが婚礼の日に纏った、薄絹のヴェールだけが広がっていました。
 お姫さまがいない——ベルデは真っ青になり、近衛が控える廊下へ駆けだそうとしました。そのとき、やさしい波音が彼女を引きとめました。波音はたしかに寝台から聞こえました。ベルデは燭台を掲げて、寝台を覗きこみました。ゆらめく炎の灯りが、金糸銀糸で織りあげられたヴェールにきらきらと照り映え、水面のように輝きました。その不思議な瞬きに、思わずヴェールの端に触れてみると、指先がつめたく濡れました。
 ベルデは目を見開いて、指から伝い落ちるしずくを見ました。そしてヴェールを見つめました。金と銀との光がさざめき、揺れ動いたかと思うと、まぶしい夜明けの凪の海が、寝台の上にありました。

 ベルデは手を伸ばし、まずは指を、そして手のひらを、その水面に差しこんでみました。波紋がやわらかく手首を包みました。そのまま腕を沈めてみれば、水はどこまでもベルデを受けいれました。水底に触れる気配すらなく、ベルデは身震いして腕を引っこめました。そしてしずかに考えました。
 いなくなったお姫さまは、この中にいらっしゃるに違いない。
 ベルデは寝台の傍らに跪くと、深く息を吸い、水面に顔を沈めました。

 目を開けば、そこには海がありました。
 どこまでも深い、吸いこまれそうな青の底へと、夜明けの光が梯子のように降りそそぎ、ゆらぐ光の合間を縫って小さな銀魚の群れが身をひるがえしていました。群れからはぐれた銀魚を、イルカたちがすばやく追いたて、踊るように弧を描きました。誰かが、イルカと一緒に泳いでいました。波打つゆたかな黒い髪、しなやかに水を掻く腕、力強くうねる灰色の尾びれ、どれほど遠くても見間違えようもない、それはひとりの人魚でした。そして、それこそがお姫さまのほんとうの姿であることを、ベルデは一目で悟ったのでした。
 なにを言おうとしたのか、ベルデの唇はひとりでに動き、いくつもの泡が顔をかすめて水面に上っていきました。海の中では、人間の声は言葉になりません。イルカたちが彼らの言葉で歌いかわすのを聴きながら、ベルデは息を止めたまま、泣きたくなるほど懐かしい海に見入っていました。
 とうとう耐えきれなくなって、息継ぎのために顔を上げると、海は幻のように消えさりました。
 ベルデは、夜闇に包まれたお姫さまの寝室で、寝台の傍らに座りこんでいました。床に置いた燭台はまだ燃えつづけていました。前髪を伝ってぱたぱたと落ちていくしずくと、息を求めて荒く震える胸だけが、たしかな海の名残でした。もういちどヴェールに触れてみましたが、そこには、さらりとした薄絹の手触りがあるだけでした。

 おしまい、と椰子の実は言いました。
 おしまい? と、月は驚いて声を上げました。
 それからふたりはどうなったのかと、夜空を傾いてゆきながら、月は物語の続きをせがみました。夜は更けて、夜明けが近づき、月はもうすぐ海に触れそうなところまで空を降りてきていました。椰子の実は、おしまいと言いながらも、もうすこしだけ続きを話してくれました。

「お日さまが昇ったときには、お姫さまはなにも変わりなく寝台で眠っていたよ。尾びれなんてどこにもなかった。長く見事な黒髪もすっかり乾いていたから、ベルデは髪に櫛を通しながら、昨夜のことは夢だったのかもしれないと思った。けれど、そっと手にした髪の一房からは、たしかに海の匂いがしたんだよ。
 ベルデはお姫さまに、あなたは人魚なのですか、と訊いたりしなかった。けれど髪結いが終わったあとに、朝の日差しを受けて微笑むお姫さまの、海のような蒼い瞳をじっと見つめたそうだよ。お姫さまもまた、海辺の国から共に旅をした侍女の、緑の瞳をしずかに見返したんだ。あの海から息継ぎのために顔を上げる、その刹那に、お姫さまがこちらを振りかえったように見えたのは、気のせいではなかったと、それだけでベルデにはわかったよ。
 ベルデは、ただ一言、いつかまた海が見とうございます、と小さな声で言った。
 お姫さまは目を細めて、その願いは叶うことでしょう、と囁いた。
 そしてそのとおりになったんだよ」

 椰子の実が語る物語はそれでおしまいでした。こんどは月も満足して、夜明けの海に沈んでゆきながら、椰子の実にお礼を言いました。あまねく夜を照らす月にも、まだ知らない物語があるというのは、とても喜ばしいことでしたから。
 最後にひとつだけ、と月は椰子の実に尋ねました。山岳の国に生きた人魚の物語を、どうして椰子の実のあなたが知っているのかと。椰子の実は波間に浮きつ沈みつ、ぷかぷかと笑って答えました。
「それはね、お月さま。小さなひとつの椰子の実が、そのヴェールの波間を越えて、この海に流れついたからなんだ」


  

Profile

風野 湊 / 小説家

1990年生まれ。現在の代表作は、熱帯雨林の樹木変身譚『すべての樹木は光』(2020)、即興小説に基づく短編集『永遠の不在をめぐる』(2014)など。幻想の質感が伴う風景描写を得意とする。 


▼著者の寄稿文一覧
https://atsea.day/blogs/profile/minato-kazano 


▼小説のモチーフになった作品
「夜明けの凪」写真=中村風詩人
https://atsea.day/products/newcaledonia-nagi