ゴッホが最後に描いた作品。剥き出しの生命が語る《木の根と幹》
写真・文=帆志麻彩

フィンセント・ファン・ゴッホという画家の生涯を辿るとき、私たちはどうしてもその劇的な最後や、狂気と隣り合わせの情熱に目を奪われがちだ。しかし、彼がこの世に残した最後の一枚と向き合ったとき、そこから静かに感じとれるのは、絶望でも狂気でもなかった。
私は昨年、オランダ・アムステルダムにあるゴッホ美術館を訪れ、ゴッホの遺作とされる《木の根と幹》を鑑賞した。彼が最後にキャンバスに描いたものは、そこで表現したものは何だったのか。今回は、その絵筆に込められたメッセージを紐解いてみようと思う。
オーヴェール、終焉の地での爆発
1889年、南仏サン・レミの精神病院で療養生活を送っていたゴッホは、翌年5月、パリ郊外の静かな村オーヴェール=シュル=オワーズへと移り住んだ。そこは精神科医ガシェ博士の勧めもあり、彼が心機一転、制作に打ち込もうとした場所だった。実際に彼はこの地で過ごしたわずか70日ほどの間に、80点近い作品を驚異的なペースで描き上げている。
しかし、1890年7月27日、彼は村の麦畑の近くで自らに銃を向けた。その2日後、自身の画業と精神を生涯支え続けた最愛の弟テオに看取られ、37歳の若さでこの世を去った。この《木の根と幹》は、彼が自ら命を絶ったとされる日の朝に描き始め、亡くなったときにはまだイーゼルに立てかけられたままだったという。まさに「遺言」のような一枚と言える。
日常に見出す「美」の正体
この絵を前にしたとき、多くの人は少しの戸惑いを覚えるかもしれない。そこには、彼を象徴するひまわりのようなわかりやすい主題も、燃え上がるような星月夜の夜空もない。画面いっぱいに広がるのは、複雑に絡み合い剥き出しになった樹木の根と幹のクローズアップ。
《木の根と幹》において、ゴッホが注目したのは、地面から力強く飛び出した木の根であった。ねじれ、曲がり、互いに干渉し合うその形。彼はそこに、言いようのない好奇心と、命そのものが持つ美を見出した。一見すると何を描いているのか判然としない抽象画のようにも見える。しかし、それこそが彼が最後に到達した地平だったのだ。
筆遣いは驚くほど速い。キャンバスの上で踊るように走る厚塗りの絵の具、長めの筆遣いと短い筆跡。ところどころ下地のキャンバスが見えている部分さえある。未完成でありながら、迷いのない自信が満ち溢れている。死を目前にした人間が描いたとは思えないほどの鮮烈なエネルギー。彼はこの時、己の技法と感性が完全に溶け合った場所に辿り着いていたのではないだろうか。
未来へと開かれた現代芸術
この作品は、ゴッホが単なる悲劇の画家ではなく、彼が切望した現代芸術家としての姿を証明している。彼はここで後世の画家たちに多大な影響を与えることになる、極めて個人的で、かつ革新的なスタイルを確立したのだ。写実を超え、色彩と線そのものが感情を語り出す表現主義、あるいは対象を断片化して再構築する抽象表現の萌芽が、この絡み合う根の間に宿っている。
ゴッホは生涯を通じてたった一つの目的を追い求めてきた。彼にとっての芸術とは、高貴な理想や壮大な物語を描くことではなかった。足元に広がる土、名もなき野花、そしてこのうねる木の根といった、誰もが見過ごしてしまうような日常の中に美を見出すこと。それこそが彼の切なる使命だった。
一枚の絵が結ぶ「現在」と「過去」
この絵が描かれたとされる場所は、長い時を経て一世紀以上もあとに特定された。彼が最後の日々を過ごしたラヴー旅館(Auberge Ravoux)からわずか150mほどの道端にある斜面が、この絵のモデルとして非常に信憑性が高いと発表されたのだ。
現在その場所は大切に保護され、木の根は今もなお、ゴッホが描いたあの日のように力強く地を這っている。アムステルダムの美術館で見た作品が、フランスの村の道端に実在する風景と重なり合う。その事実は、彼の芸術が決して空想への逃避ではなく、目の前の現実への観察から生まれたものであることを、改めて私たちに教えてくれる。
かつて彼は手紙の中で、樹木の根に「人生の苦闘」を投影していると書いたことがあった。しかし、この遺作に漂うのは、苦しみというよりは生命そのものが持つ抗いがたいうねりへの肯定だ。地面を這い、岩を砕き、それが光を求めて空へと伸びようとする根の姿は、彼自身の魂のありようそのものに感じられる。
キャンバスに残された荒々しい筆使いは、130年以上経った今もなお、アムステルダムの展示室でゴッホの呼吸を伝えてくれる。彼は自らの命が尽きる直前まで、世界の美しさを信じ、それを捉えようとしていたのだと。そして、何気ない日常の足元にこそ、深い美しさが眠っているのだと。彼は最後に、その魔法を私たちに遺してくれたのだろう。

◇ ファン・ゴッホ美術館|Van Gogh Museum
住所:Museumplein 6 1071 DJ Amsterdam The Nederlands
Google Map
https://www.vangoghmuseum.nl/en
Google Map
https://www.france.fr/ja/article/Auvers-sur-Oise/
《木の根と幹》のモデルとされている場所は、観光客が自由に入り込んで根を傷つけないよう柵が設置されています。一般見学可能ですが、ガイドツアーが推奨されています。
[ガイドツアー]
https://vangoghroots.com/en/home-english/
オーヴェル=シュル=オワーズは、ゴッホが描いた麦畑やオーヴェルの教会など、ゆかりの場所が現在も多く残っています。ゴッホをの最後を辿りながら、ぜひ町歩きをしてみてください。
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