目に映る景色が人生をつくるのなら。第4話「言葉が足りなくても」

写真・文=帆志麻彩

目に映る景色が人生をつくるのなら、自分に何を見せてあげたいだろう。
At Sea Day 店主が綴る、のんびりマイペースな旅エッセイ。

第4話は、オランダのホームステイ先で、映画 "Mon Oncle" を観た日のお話です。
 


日本への帰国が近付いていたある日、「みんなで映画を観ない?」と声をかけてもらった。時刻は19時をまわっていたけれど、窓の外はまだ明るい。 オランダの春はいつまでもお昼が続いているみたいだ。

どんな映画を観るのだろう。やっぱりオランダ語かな、それとも英語の作品? ソファーで待つ間、私は「一緒に映画を観る」という予想外の展開に、少しの高揚感を覚えていた。映画のお供に用意されたのは、いつもの珈琲とケーキ。夜に珈琲を飲むオランダ生活も、この頃にはすっかり体に馴染んでいた。

しばらくしてテレビ画面に映し出されたのは、 "Mon Oncle"(ぼくの伯父さん)という映画だった。フランスの映画作家ジャック・タチが、脚本・監督・主演を務めた、1950年代の名作だ。舞台は古き良き時代のパリ。コミカルで少しおっちょこちょいな印象の男性と、彼を慕う少年の日常が描かれていく。

観始めてすぐに、「あ、これなら大丈夫だ」と胸をなでおろした。この映画、説明的な台詞がほとんどないのだ。「言葉がわからなくても、みんなで笑えるように」 彼らがそっと差し出してくれた、無言の思いやり。ユニークなビジュアルと普遍的なユーモアセンスは、120分の間、私たちに言葉のいらない笑いを生んでくれた。

20代前半から旅の仕事をしている私は、よく「英語が流暢なんでしょう」と勘違いされる。世界をうろうろしている人を見ればそう思うのも無理はない。「どうしているの?」と不思議そうな顔をされるけれど、仕事のときは通訳さんに頼り切りだし、プライベートの旅では中学レベルの単語とジェスチャー。そして何より、「この人は何を言おうとしているんだ?」と汲み取ろうとしてくれる相手の優しさに図々しく甘えながら、今日まで何とか歩いてきた。

だから今回、オランダ語を話す友人家族の家に泊めてもらうことになっても、あまり不安を感じていなかった。相手がどれほど流暢な英語を操ろうとも、受け取る私のレベルが追いつかないのなら、オランダ語でも英語でもそんなに変わらない。どこかでそう開き直っている部分があったのだと思う。

私が英語に詰まってしまう理由のひとつに、日本語の細やかなニュアンスをそのまま翻訳できないもどかしさがある。例えば「うららか」と言いたいとき。英語では "beautiful" や "gentle" と訳されてしまうけれど、私の頭の中にある「うららか」は、それだけではこぼれ落ちてしまう。その言葉でしか捉えられない光の粒子、柔らかな温度。そういうものを、つい守りたくなってしまう。単に知っている英語表現が乏しいだけの話かもしれないが、
安易な言葉で妥協したくないという少し厄介なこだわりが、私の口を噤ませてしまうのだ。


映画が終わり、エンドロールが静かに流れる。部屋には、誰かが小さく漏らした笑いの余韻と、空になったカップの底に残る珈琲の香りが優しく混じり合っていた。

結局のところ、私たちが共有したのはストーリーの細部ではない。奇妙な噴水の音に顔を見合わせ、ジャック・タチの軽妙な足取りに声を上げて笑った、その「瞬間」だ。同じものを見て、同じタイミングで心が動く。それだけで、もう十分に手をつなぎ合えたと言えるのではないだろうか。

自分なりの訳が見つからない日本語を抱えたまま、私は旅を続けていく。スマートに表現できないもどかしさは、これからも私を悩ませるだろう。けれど、言葉が足りないからこそ、相手の瞳をじっと見つめ、手ぶりを交え、差し出された一杯の温かさに心を込めて微笑むことができる。

「素晴らしい夜だった」

そう思ったとき、口をついて出たのはありふれた「Thank you」だった。けれど、私の肩に優しく置かれた手の温もりから、その言葉がいくつものニュアンスを含んで彼らに届いたことがわかった。

目に映る景色が人生をつくるのなら、言葉を介さずに分かち合ったこの柔らかな光景もまた、私のこれからの人生を支える大切な一部になる。冷めた珈琲を最後の一口まで飲み干し、私はまた明日へと歩み出す準備を始めた。



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