タブーや「話してはいけないこと」、「ダメなこと」に問いかける。振付家 ・ダンサー 長尾明実 / インタビュー

【ベルリン在住の振付家/ダンサー・長尾明実さん】インタビュー : 強者だった自分が弱者になって見えたものとは

ベルリン在住の写真家・中島ゆう子がヨーロッパ在住のアーティストにお話を伺い、不定期で更新するインタビュー企画です。第三回目はベルリンを拠点にコンテンポラリーダンスの分野で活動される振付家 / ダンサーの長尾明実さんをご紹介します。

 
明実さんのHZT Berlin(ベルリンのダンス大学センター)卒業制作を初めて拝見したとき、あの独特なキッチュな感じがとても心地良く、一気に引き込まれたのをよく覚えている。作品全体はポップな構成でありながら、ダンサーをこの混沌とした社会の道化のように見せる振り付けと舞台演出から、明実さんの「問いかけ」を強く感じた。今回は明実さんとコラボレーターのサブリーナが行った「Saturday Digestion」のプロジェクトを中心に、明実さんの活動について話を聞いた。


ダンサーが職業として確立していることの衝撃

中島:
明実さんがベルリンへ移住した理由を聞かせてください。


長尾:
ベルリンに移住したのは20073月頃です。日本にいた頃はモデルエージェンシーでアシスタントとして働いていました。小さい頃からずっと踊りをやっていたけど、日本は踊りで食べていけなし、テレビで踊っている人を見てもピンと来なかった。自分の身の周りの人を見ても、昼間は仕事をして、夜中にダンスのリハーサルをして3日間寝ない、という生活をしていて、自分はそういう生活は絶対嫌だと思いました。なので、大阪のモデル学校に通い始め、最終的に別のモデルエージェンシーでアシスタントとして働いていました。仕事をしていく中で、たまたま他の事務所のオーディションへ行く機会があり、そこにいらした社長がオーディションが始まる前に「ファッションやモデルに興味があるのなら、一度ヨーロッパに行った方がいいよ」と、みんなに言ったんです。日本と違ってヨーロッパはファッションで経済が成り立っているから見てきた方がいいよ、と。その社長の一言で、当時姉が住んでいたベルリンへ行くことを決めました。ヨーロッパで面白いことを経験できるかな、と思いワーキングホリデービザを取得し、1年以内には日本へ帰ろうと当初は考えていました。

渡独してすぐ語学学校へ通い始め、夜や週末は姉の友達が主催したパーティーに参加する生活をしていく中で、ダンサーの人と出会う機会が生まれ、ダンサーの人たちのパーティーに行くようになったんです。そこで「あれ?ここではダンサーが職業になるの?職業としてダンスが成り立つの?」と気付いたんです。踊りは仕事にならない、と半ば諦めた形でモデル業界の仕事を始めたので、ベルリンでは踊りが仕事になるということに大きなショックを受けました。私自身、若い時は負けず嫌いだったので、「私だってずっと踊ってきた!」と悔しい思いをしたのを覚えています。

あるとき、ベルリンで有名な川口ゆいさんというダンサーがダンスを教えているから一度行ってみたら、と声をかけられました。ゆいさんはダンサーとして世界中で活躍されていたのですが、お子さんが生まれてから自宅の近所でダンスを教えるようになったそうです。その時に初めて、いま私がやっているコンテンポラリーダンスに近いものを体験しました。ゆいさんのクラスは、フィジカルにちゃんと踊るし、さらにバレエの動きもちょっと入れたりしていて。小さい頃習っていたバレエをもう一度やりたいと思っていたタイミングだったので、当時の私にはゆいさんのレッスンがちょうど良かったんです。もしそのときに私が今やっているコンセプチュアルなコンテンポラリーダンスをゆいさんのクラスでやっていたら、おそらく受け入れてなかったとも思います。そこから、コンテンポラリーダンスを習い始めました。

ゆいさんがご自身で作品を作ってショーをやっていて、それをお手伝いさせていただいたりもして。「明実ちゃん、音楽のプレイボタンを押す人がいないからやってくれない?」とか、本当に小さなことだけど、やってほしい、と言ってくれて。移住したばかりで、踊りをやりたいのかやりたくないのか分からず、その瀬戸際で悩んでいたので、いろいろ体験させてもらえてありがたかったです。


明実さんのプロジェクト Saturday Digestionについて

 ©  Saturday Digestion


中島:
月に一度開催されている  Saturday Digestion” (サタデー・ダイジェスチョンではどんなことをされているのでしょうか?


長尾:
サタデー・ダイジェスチョンでメインに行っていることは、「自分が今やりたいって思っていること」を行動にする練習です。プラクティス中は、動きたいと思ったら動く、何か表現みたいなことをしたいなら表現してみる、寝たいなら寝る、みたいに自分の願望の赴くままに行動してもらいます。言語のインプット・アウトプットはNGですが、言語ではない声を出すのはOKです。それをグループ(自分以外の他者がいる環境)でやっています。最近は上記のトピックスに加えて、だんだん「休息」にメインフォーカスが当たって来ています。


中島:
「自分が今やりたいって思っていること」を行動にする練習から、徐々に「休息」がメインになってきているのはどうしてでしょう?


長尾:
「休息」がメインになってきているのは、社会の中で「休息することが良いとされてない」からだと思います。「休息は必要だ」とは言われているけど、「休息は良いこと」とは言われていない。「また生み出すための休息」、「生産のための休息」とは色々なところで言われているけど、それはおそらく、そう言わないと受け入れられないからだと思います。

2時間5分のスコアの中で、「本当に疲れていたら寝てください」と、参加者の方に言っています。それを自分に許す場であるし、おそらくそれをできる場所がまずない。プラクティス中は携帯電話がない、誰とも喋れない、となると、どんどん退屈になってきて、寝る人が多いんですけど、私たちの日常生活には、退屈すらないじゃないですか。そういう意味ではこのプラクティスを通して、退屈を経験してほしいっていうのもひとつあります。初めの数分は瞑想などのフレームがあるので最初はそれをやっていればいいのですが、次のウォームアップとオープンスペースというフレームは、アブストラクト(抽象的)すぎて何をやっているかよく分からなくなる。退屈して寝る、という行為をプラクティスの空間内では自分で許可をしやすくなっているので、私たちの最終的な願いは、この体験を通じて、「休息」することが日常生活でも普通になればいいなと思っています。プラクティス後は参加者の方々から毎回「すごい良かった!」みたいなことは言われますが、「この経験をして気持ちよかった」という感覚を持って終わる人が多く、習慣化していないのが現状だと感じています。

プラクティスを作品にする、とはどういうことか" Saturday Digestion" のパートナーのサブリーナ © Saturday Digestion


中島:
一時帰国した際にこのプラクティスを日本でも開催 し、パフォーマンスとして発表されたそうですね。お客さんの反応はいかがでした?


長尾:
神戸のNPO DANCE BOXで、このプラクティスを作品に昇華させて、レジデンスの最後にWork in Progress(パフォーマンス形式にしたもの)をシェアしました。本当はこのプラクティスから色々掻い摘んで最終的に作品にしようと思っていましたが、それが結果としてプラクティスのまま作品にする、ということになりました。空間やライト、客席を少しアレンジしましたが、ストラクチャーは2時間5分プラクティスをやる、という内容です。パフォーマンス後、最終的にお客さん、みんな寝たんです。ブーイングの嵐になることも予想し、「どんな形になるんだろ」、「これは可能なんだろうか」、「可能でもこれをやって面白い人がいるのかな」とずっと話していましたが、私たちの願っていた方へいきました。


中島:
それはつまり、舞台上でプラクティスをみんなにやってもらう行為を作品にしたのでしょうか?


長尾:
プロダクションとしての作品は、プラクティスそのものです。実際パフォーマンスをすることによって、お客さんもパフォーマーになり、パフォーマーとお客さんの境目が分からなくなるんです。

「パフォーマンスを見るぞ」とお客さんは意気込んで入ってきたのに、あんまり何も起きない。周りを見ると、他のお客さんたちもちょっとコンフューズしているのですが、510分ぐらいしてくると、寝だしたり、会場内のヨガマットでストレッチを始めたり、ゴロゴロしたりするんです。「これはしていいです、これはしちゃダメです」と書かれたディスクリプションを入室時にお客さんに渡しているのですが、その中の「して良いこと」はゴロゴロすることも含まれるので、基本的にプラクティスの状態と一緒です。言語については、 ディスクリプションを読まないといけないのであまり触れませんでした。

途中からお客さんとパフォーマーの境目が分からなくなって、とても面白かったです。お客さんが自然とジョインしようと思って来たのではなく、おそらく自然にそうなって。それが一番の状態だと思います。


中島:
面白いですね。 あらゆるものが作品になりうるんだ、ということにお話を聞いていてすごく刺激をいただきました。 「作品とは何だろう?」と私自身、悩むことが多いです。 写真は作品になりうるの?と。目の前のもの撮影しているだけかもしれない、写真が作品になりうる、ということはどういうことなんだろう、と。


長尾:
何にでも作品になりうる、と気がつくこと、それを受け入れられる心は大事ですよね。サブリーナと私は好きなジャンルは似ているけど、細かいとところの好みは全然違って。でも「休息」だったり、ちょっとレイジーなことが2人とも好きで、そこをお互いに「いいよね」と言えるのはすごく強みだと思います。1人だったら、「休むことがいい」とは言い切れないし、「それを良いと言っていいのかな?」とか、今回のパフォーマンスで言えば、「このプラクティスをそのまま作品にしパフォーマンスすることに対して文句言われるだろう」とずっと話していたけど、それでも信じて押せたのは、2人いたから。直感を確固たるものにするには1人だけだとどうしても弱くなってしまうことがあるけど、2人だと強く押せる部分があると思います。


中島:
このプラクティスを将来プロジェクトにする、というお話をお伺いした際、「どういうこと?」と思ったのですが、いますごくスッと頭に入りました。


長尾:
私たちも最初は頭の中が「?」だらけになっていました。当初私たちが考えていた舞台、音楽、マテリアル(動き、振り付け)は、今と全く違うことで、そこから神戸のレジデンスが始まったのですが、3日目ぐらいに「これは無理だ」となったんです。というのも、似ている方向を2人とも見ていたと思ったけど、実際は真逆の方向を見ていて、私が好きなことを彼女は嫌、彼女が面白いというものを私は嫌、となってしまって。2人が面白いと思う作品を作る、と考えた時に、私たちはプラクティスに対して「これがいい」と思ってずっとやってきたから、手を加えずにこのままやった方が良い、ということになったんです。そこで2人ともストンって落ちたんですよ。そこから一切迷いがなくなり、良い意味でも悪い意味でも、フォームが揺るがなくなりました。

プラクティスをそのまま舞台に置いた時に、それを作品と呼べるのか、と言われたら、おそらく2人とも呼べないって言っていたし、今でも思うことがあります。だからこのパフォーマンスを通して私たちの中で価値観が変わりました。私たちの当たり前が壊されたけど、そこには安心感はある。

 


明実さんの振り付け・ダンスのトピックスについて

身体、空間、時間。それらがなくなる瞬間は「死」。その全てがなくなったものを表現する

長尾:

私は死や差別、さらに大学院時代は性行為やジェンダー、お金のことなど、社会の中でタブー視されていることをダンスのトピックスとして取り上げていました。ドイツに来て、日本ではタブーとされていることが話されているのを目の当たりにしました。オープンに話されているけど、それでもドイツにもタブーがある。ドイツでは月収の話はしないですし。差別に関しても差別についてみんなで話しているけど、実際差別に遭った当事者が話し出したら、「もう分かったから!ごめん!」となる人が多くて。差別について話しちゃダメ?みたいな雰囲気を感じます。セクシュアルなこともLGBTQなど、性的指向の多様性の話は少しずつ出来る環境になって来ていますが、性行為の事を大っぴらに話す人はあまりいない。性行為があるから、私たちはいるのに。言語が一番重要という文化が浸透しているドイツでさえ、性行為に対して言語表現してはいけないみたいなところがあったり。死についても、死ぬっていう現実を受け入れちゃダメだと。受け入れている社会でもないし、そのことについて考えさせてもらえる機会もない。

ダメ、と言われているものの中にも、実際いっぱい良いものもある。それを見つけるのが面白いですね。 資本主義においても、みんなある程度お金は好きだけど、「お金が好き!」と言っちゃダメだと思っている。美味しいものを食べられたら嬉しいし、お金を払って何か買うのも嬉しい。欲が強い人が作った資本主義という「フレーム」が社会をおかしくしちゃっているだけで、お金自体が悪者にされることが多いけど、お金はただのツールと数字ですよね。そういうタブーや「話してはいけないこと」、「ダメなこと」に、私は興味があります。


中島:
なるほど。どうしてタブーや死をダンスのトピックスとして取り上げるようになったのでしょうか?


長尾:
タブーや死を取り上げるきっかけとなったのは、差別問題から始まりました。なぜ私はある特定の人を見た時に自分より劣っていると思うんだろう、どうしてこの人を見た時にジャッジしちゃうんだろう、と疑問を持つようになりました。そうやって見た目でジャッジするよりも、その人の良いところを見た方が人生は楽しいじゃないですか。そういったところを取り逃している気がしました。また、自分がベルリンに来て弱者という立場を経験したことも大きく影響しています。日本では強者というか、スーパーウーマンみたいな感覚だったから、他者を怠け者だったりとか、能力がないと思って切り捨てて、その人たちへ興味を持つことすらありませんでした。

私自身は日本にいたときから変わってないのに、渡独して立場が変わってしまった。それは社会の構造がそのように成り立っているからだと、この経験を通して気がつきました。同時に何が良い悪いではない、とも思ったんです。なぜ性行為について語るのが悪いこと(ダメ)なのだろう、休息はダメと言われてるけど、実際良いところもいっぱいある、とタブーについて考えるようになりました。


中島:
たしかに何事も極端に悪はないですよね。どちらの側面もあるし、どちらを重点的に見るか、というのは人や社会の判断に委ねるけど、そのもの自体は良いも悪いも両方ありますよね。


長尾:
そうだと思います。 死についても私は悪いものじゃないと思っています。 悲しいけど、でも悲しいだけじゃなく、それから学ぶこともある。死がないと私たちも生きていけないし、命の連鎖の中に美しさがいっぱいある。硬直していき、全部の機能が止まっていって、冷たくなっていって、記憶もなくなりゆっくり死に向かうこと、死ってすごい不思議ですよね。しかも死自体は自分で体験できないじゃないですか。それも面白い。

インタビュー後記:「死」について

明実さんのもう一つのプロジェクト “Grandmothers” のことをここで少し紹介したい。明実さんはフランスでご自身のお祖母様の亡霊に出会い、そのことを “Grandmothers” のコラボレーターであるヨハンナに話したことからこの作品が誕生した。3人のコラボレーターはそれぞれ様々な祖母との関係性を持ち、さらに多種多様な文化、国籍を背景にした人々と共に制作した “Grandmothers” は、死と時間、祖母(たち)が舞台上で交差する。亡霊や死、そして脈々と受け継がれるものをテーマとした作品を私も制作したので、個人的に “Grandmothers” も明実さんの卒業制作と同じくらい印象に残っている。そんな彼女が最後に話してくれた「命の連鎖」、「硬直していき、全部の機能が止まっていって、冷たくなっていって、記憶もなくなりゆっくり死に向かうこと」、これらの言葉に強く共感したインタビューとなった。今回話していただいたタブーや差別、作品のことなど、読んでいただいた方の心に響いたら嬉しく思う。

 

〈 今回お話を伺った人 〉
長尾明実さん / Nagao Akemi

PoC*の振付家、ダンサー、アーティスト、ゆっくり主義者である長尾明実は、2015年より差別や不平等をテーマにした作品を創作している。彼女の芸術的関心は、社会構造と個人心理の複雑な対立の探求と再評価にある。彼女の主な作品『B OR D ER S?』、『JUICY METAMORPHOSIS』、『DIAMOND - The Crossing Point of Money and Spirituality』は、差別、セクシュアリティ、お金と人間性の関係といったテーマを扱っている。彼女の振付は、これらのトピックに独特で楽観的な角度を提示する。

彼女のダンスのバックグラウンドは、バレエ、フォーク、ストリート、ソウル、コンテンポラリー、即興など多岐にわたる。多様でミニマルな動きを融合させる。2010年よりダンサーとして、チョイ・カファイ、中馬芳子、フェリックス・マイヤー=クリスチャン、ジョーン・ジョナス、ハンス・ペーター・クーン、レミ・ポニファシオなど、ヨーロッパ、アジア、アメリカで数多くの振付家、演出家、アーティストとコラボレーションしている。

振付家として、ヨハンナ・アクヴァ、アンナ・クーベリック、ミン・オー、ジョヴァンニ・ヴェルガなど様々なアーティストとコラボレーション。2020年からは、HZTベルリン、ポンデローザ・シュトルツェンハーゲン、UdKベルリンなど、さまざまな場所でサブリナ・フートとともにサタデー・ダイジェスチョンSaturday Digestion)の練習とファシリテーションを行っている。20219月、ベルリンのHZTにて振付の修士課程(maC)を卒業し、在学中、DeutschlandstipendiumStudienstiftung des deustchen Volkesから奨学金を受ける。

PoC/POC(People/Person of Color:有色人種)

https://nagaoakemi.wixsite.com/akemi-nagao


取材・文・撮影 =中島ゆう子