アラスカクルーズで出会った、流氷の上のアザラシのこと

夏が来ると、私はいつもアラスカで見た美しい景色を思い出す。初めて訪れたのは2019年、Princess Cruise の世界一周クルーズに乗船したときのことだった。

それまでの私にとって、アラスカはテレビのドキュメンタリーや、旅雑誌の贅沢なグラビアの中でしか見たことのない世界だった。だからこそ、船が北へと舵を切り、世界が少しずつその色を変えていく日々を、私は指折り数えて待ちわびていた。

船は目的地であるヤクタット湾の奥へと近付いていく。デッキに出ると風が少し冷たい。

目の前に広がるのは、夏の太陽に照らされた美しい青の数々。ある部分は透き通るようなコバルトブルー、またある部分は、深い藍色――。氷河そのものが微かに発光しているかのようにさえ見える。その後ろには、真っ白な雪を抱いた山々がそびえ立つ。これだけの自然を前にすると、人間という存在の小ささを思わずにはいられない。船はさらに速度を落とし、鏡のように凪いだ湾内をじりじりと進んでいく。海面に目を落とすと、小さな流氷がぷかぷかと浮いている。

そのひとつ、少し大きめの流氷の上に、一頭のアザラシがちょこんと乗っているのが見えた。まるでお気に入りの白いソファでうたた寝でもするかのように横たわっている。大きな客船が近くを通り過ぎようとしても、丸い体を少しだけ揺らし、眠たげな瞳をこちらに向けるだけ。特に焦る様子もない。その無防備な姿がたまらなく愛おしく思えた。

「左舷側、流氷の上に可愛いアザラシが乗っているのが見えると思います。実は今、地球温暖化によって流氷が急速に減少していて、アザラシたちに深刻な影響を与えているんです」

船内にガイドのアナウンスが響いた。

アザラシは、天敵であるホッキョクグマなどから逃れ、冷たい海水から赤ちゃんを守るために氷の上で出産、子育てをするそうだ。流氷が薄くなったり、早く溶けたりすることで、まだ未熟なアザラシの赤ちゃんが海に落ちて亡くなってしまうケースも増えているという。少し離れたところでは、ラッコが仰向けになり、気持ちよさそうに泳いでいた。時折、こちらの様子を伺うようにきょとんとした顔を上げ、またすぐに水面へと身を委ねる。

すると、またガイドのアナウンスが流れた。

「実はこのラッコたちも、二酸化炭素の増加で餌がとれなくなったり、海水温の上昇によって冷たい水を好むケルプ(藻場)が枯れてしまい、天敵に襲われやすくなったりと、地球温暖化の影響を受けているんですよ」

私たちは、彼らの暮らす場所をほんのひとときだけお邪魔して通り過ぎるだけの、不躾な旅人にすぎない。いや、ただ通り過ぎるだけ――というにはちょっと身勝手かもしれない。大きな船が立てる水中でのエンジン音や、その存在自体が、彼らの日常に少なからずストレスを与えているのだろう。呑気そうに見えたあのアザラシの視線も、もしかしたら精一杯の警戒だったのかもしれない。アラスカの海はここに生きる彼らのためにあるのだと、小さな流氷が教えてくれているかのようだった。

船はいよいよ湾の最奥部に到着し、大きな氷河の前に停まった。ここが北米最大の潮間氷河と言われているハバード氷河だ。その迫力に乗客はみな圧倒されている。しばらくすると、地鳴りのような轟音と共に巨大な氷の塊が海に崩れ落ちた。大砲の音とも雷の音とも違う、お腹の底を直接揺らすような地響き。船内は一瞬にして割れんばかりの歓声に包まれる。7月〜8月のアラスカクルーズは、この巨大な氷の塊が崩れ落ちる「カービング」と呼ばれる現象が頻繁に起こる。野生動物との出会いはもちろん、氷河の崩落を見るのもアラスカ旅行のハイライトになっているのだ。

これまた地球温暖化の影響なのかと思いきや、氷河が海に崩れ落ちること自体は自然のサイクルによるもので、気候変動とは直接関係ないらしい。私は先ほどのアザラシたちを思い、少しだけ胸をなでおろした。同時に、地球規模の環境変化だけでなく、今まさに目の前で観光を楽しんでいる私たちの存在もまた、彼らの平穏を少なからず削り取ってしまっているという事実に、ちくりと胸が痛むのだった。



あれから随分月日が流れたが、東京の寝苦しい夏の夜、目を閉じると、今でもあの氷河とアザラシたちの姿を鮮明に思い出すことができる。

年々厳しさを増していく暑さの中で、エアコンの音を聞きながら思う。手放しに「美しい」と感動している景色の裏には、彼らの生活に侵入しているという側面が常に存在する。だからこそ、その事実を正しく知り、自然への敬意と思いやりの心を持って、負荷を最小限に抑える観光を支持していくことが、私たち旅人には求められているのだと。

知ることは、新しい優しさの始まりになる。この世界の素晴らしい景色を人間の都合でただ消費するのではなく、自然を、彼らの平穏を守る旅を選んでいく。その選択の積み重ねが、これからの旅をより豊かであたたかなものに変えてくれるはずだ。



写真=中村風詩人
文=帆志麻彩