漂いながら、生きる旅。#7「小波」
生きる、はたらく、つくる。人生そのものを旅路と捉えた「過程」の記録。
日常の中で生まれる気づきや心の揺らぎをたどり、書き留めるエッセイ。
寄稿者=大中原春菜(グラフィックデザイナー)

旅をしていないはずなのに、なぜかずっと「旅」をしている感覚がある。
日々を生き、はたらき、つくること。
その繰り返しの中で、私たちは知らないうちに、幾度となく選択をしている。
自分にとって何が大切で、何を大切にしたいのか。何を選び取り、何を手放すのか。自分の言葉や行動に対して責任を持ち、決断し、取捨選択をする。
遠くへ行かなくても、心はいつも少しずつ漂流している。そんな人生という旅の途中で、立ち止まりながらどう漂いながら生きるのかを見つめつつ、アートと日常のあわいにある心の動きを記録する「灯台の時間」のような、小さな記録です。
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波は不思議だ。
海を眺めていると、小さな波が絶え間なく岸へ寄せては返している。ひとつとして同じ形はなく、同じ場所へ戻ってくることもない。
長いあいだ、その波を追いかけていた気がする。誤解されたら説明しようとし、否定されたら証明しようとした。そうすれば、いつか本当の自分を分かってもらえるような気がしていた。
けれど、追いかけていたのは、本当に目の前にいる相手だったのだろうか。誰に、なぜ、何を、どのように理解してほしかったのか。その問いをひとつずつ紐解いてみると、初めから追いかけていたのは、人でも感情でもなく、自分自身の「安心」だったのかもしれない。
嫌われたくない。誤解されたままでいたくない。ちゃんと理解されたい。分かってほしい。必要とされたい。求められたい。人間として、その承認欲求はとても自然なものだと思う。けれど、その安心を自分以外の誰かに委ねた瞬間、自分の輪郭は相手の反応ひとつで揺らぎ始める。
返事の仕方や、ことばの行間。表情、態度、評価。ほんの小さな機微ひとつで、荒波に飲まれそうになる。そのたびに心は波立ち、思考が止まらなくなり、不安はたちまち大きくなる。気づけば、その荒波をどうにか消そうとして、また別の波を追いかけている。けれど、別の波を追ったところで、未解決の不安が増えていくだけだった。
そもそも、波は追うものではなかったのだ。波は寄せては返し、形を変え、やがて消えていく。人の感情も、価値観も、その日の機嫌も、それに似ているのだと思う。
私には私の見ている景色があり、相手には相手の見ている景色がある。同じ出来事を前にしても、受け取り方はひとつではない。湧き上がる感情そのものは選べなくても、その感情をどう受け止め、どのような行動を選ぶのかは、自分自身に委ねられている。
頭の中も、心の中も、誰にも直接は見えない。だからこそ、ことばにしなければ伝わらないことがある。「言わなくても分かってくれるはず」「察してくれるはず」そのような期待に甘えてしまえば、分かり合うための努力まで手放すことになる。
一方で、ことばを尽くせば、必ず分かり合えるわけでもない。ことばだけではなく、行動を積み重ねることで、はじめて伝わることもある。柔軟であることと、曖昧であることは違う。誰かを肩書きや型にはめないことと、決断せず責任を引き受けないことも同じではない。
ことばか行動か。どちらか一方だけに偏るのではなく、その両方がどのように積み重なっているのか。その過程と実態を通して、本質を見つめたい。そこに唯一の正解をつくろうとすると、対話はいつの間にか議論へ変わっていく。議論は、ときに相手を理解するためのものではなく、自分の正しさを守るための盾になる。説明を重ねるほど、それぞれが相手を自分の側へ引き寄せようとして、感情の綱引きになってしまうこともある。
以前は、ことばを尽くし、態度で示すことが誠実さだと思っていた。分かり合うためには、最後まで詳細に説明しなければならないと思っていた。
けれど、今は少し違う視点も持っている。まずは、自分の信じている「正しさ」を疑うことも必要なのだと思う。正論は、ときに誰かの事情や感情を取りこぼす。正しいことばが、必ずしも目の前の人を救うとは限らない。そもそも、その正しさは、誰の何を基準にしているのだろうか。
説明しないことが、不誠実なのではない。
議論しないことが、逃げなのでもない。
感じたことや望んでいることを、自分のことばで伝えたあとに、それ以上は相手を変えようとしない。その人にはその人の人生があり、その人なりの正しさがある。お互いを受け入れることも、歩み寄ることもできないのなら、離れるという選択がお互いにとっての最善になることもある。
相手が自分を思いどおりに変えられないように、自分もまた、相手を思いどおりに変えることはできない。空に向かって、なぜ雨を降らせるのかと怒ったところで、天気は変わらない。
変えられるものと、変えられないもの。その判別は簡単なようでいて、実際には難しい。変えられないものをどうにかしようとするほど、心はそこに縛られてしまう。執着のエネルギーは強く、ときに目の前にある幸せにさえ気づけなくさせる。
だから私は、同じ土俵に立たないことを選ぶようになった。それは、相手を見放すことでも、見下すことでも、裁くことでもない。お互いの世界を尊重するために、一歩引くという選択だ。相手を変えようとしないことも、敬意なのだと思う。変えられるのは、自分だけだ。誰かに強制されれば、一時的に表面を変えることはできるかもしれない。けれど、本質的な変化は、自分自身が「変わりたい」と願ったときにしか起こらない。
わざと不安にさせること。尊厳を削ること。試すことで、相手の反応を確かめようとすること。関係の中にそのようなゲームの気配を感じたとき、私はその土俵から降りることにしている。そもそも、誰とも戦ってはいないからだ。勝ち負けを決めたいわけでも、上下や優劣をつけたいわけでも、自分の正しさを証明したいわけでもない。
不安を煽ることでつながる関係は、一見すると強い刺激を持っている。
「見放されたのではないか」「失敗した自分には価値がないのではないか」「期待されていないのではないか」「失望されたかもしれない」
そのような問いが何度も脳裏に浮かぶのなら、その関係には、すでにどこかで綻びが生まれているのかもしれない。不安や不足、役割や利害によって結ばれた関係は、その理由がなくなったとき、つながりも薄れていく。
だからこそ、執着や理由だけでつながる関係よりも、自然体で穏やかでいられる関係を大切にしたい。一緒にいて、深く呼吸ができること。お互いの尊厳を削らず、大切にし合えること。必要なときには耳の痛いことも伝え合い、我慢ではなく、本音で話し合えること。何も起きていない時間にも、何かが起きたときにも、そばにいて支え合えること。そんな人や環境に出会えること自体が、幸運なことだと思う。
信頼関係は、特別な出来事によって突然生まれるものではない。日々の小さなことばや行動の積み重ねによって育っていく。そのような関係が身の回りに増えるほど、そうではないものに触れたときの違和感には、以前よりも早く気づけるようになってきた。そして、自分を不安定にさせる関係を、無理に抱え続けることもなくなった。
違和感に敏感になることは、臆病になることとは少し違う。自分が何を大切にし、何を守りたいのかを、以前よりも理解できるようになったということなのだと思う。自分を理解することは、誰かを理解することよりも、ずっと難しい。
荒波の海へ、わざわざ飛び込まなくてもいい。穏やかになるまで待つこともできるし、その海から離れることもできる。それもまた、自分と相手の両方を守るための、優しさなのだと思う。
海は今日も、小さく揺れている。その揺らぎを消そうとは思わない。ただ、自分まで荒波に飲み込まれないように、自分の内側に生まれた小さな波に気づける余白は持ち続けていたい。
揺らめく小さな波を、小さな波のまま見つめていたい。
Profile
大中原春菜 / アートディレクター・グラフィックデザイナー・ペインター
1995年、東京生まれ。
東京デザイナー学院卒業後、Web広告のベンチャーとデザイン事務所を経て、2024年より自身のクリエイティブスタジオ「noaun(ノアン)」をはじめる。東京を拠点に、ブランディングを軸とした様々な領域のデザインを行う。 日常の心地よい空気感や光をテーマに抽象画をメインとした制作活動や、余白とあたたかみを大切にしたイラストレーションも手掛けている。
