ポール・グラハム展覧会|心を刺す、桜が放つ儚い美しさ
寄稿者:中島ゆう子(写真家)
1月中旬から、ベルリンのギャラリー carlier | gebauer でポール・グラハム(Paul Graham)の展覧会が始まった。彼の名前は何度か聞いたことがあったが、作品を直接鑑賞する機会にこれまで巡り会えずにいた。ベルリンの中心街、チェックポイント・チャーリーにほど近い carlier | gebauer へ足を運び、彼の作品を堪能してきた。今回は、『Verdigris』シリーズを中心に、ポール・グラハムの展覧会をご紹介したい。
ポール・グラハム — サッチャー政権時代にポリティカルな作品を残した彼が、今回表現した展示空間とは
ポール・グラハムは、サッチャー政権時代のイギリスにおいて、社会の不平等や労働者階級の現実を鋭く捉えた作品を発表し、強いポリティカルな視点を持つ写真家として知られている。そんな彼が、今回のベルリンでの展覧会で表現したのは、かつての社会的メッセージとは異なる、より詩的で内省的な世界だった。かつての彼の作品にあった社会的な鋭さやドキュメンタリー的視点とは異なり、時間の流れや人の存在そのものに対する思索が感じられる展示空間が広がっている。
ギャラリーのドアを開けると、そこには天窓から降り注ぐ自然光が広々としたホール全体を照らし、桜が写る大きな作品と、地平線を見つめる人々が写る作品が対になって並ぶ展示空間が広がっていた。作品が生み出すダイナミックで洗練された空間に、私はすっかり圧倒され、すぐにギャラリーに入ることができず、まるで身体が水から氷になったかのように固まってしまった。
一点一点作品を丁寧に鑑賞していくうちに、徐々に観覧者の気持ちが高鳴る展覧会とは違い、作品と空間が放つパワーが一気に観覧者の心を鷲掴みにする今回のような展覧会は、ギャラリーに足を踏み入れる前から、すでに観覧者の気持ちをこんなふうにワクワクさせる。
この展示空間が私たちに問いかけるものとは何なのだろうか?今回の展覧会を通じて、その変遷と新たな表現の意図を探っていきたい。興奮した気持ちを落ち着かせ、ゆっくりギャラリーへ足を踏み入れた。メインの展示空間には自然光が降り注ぎ、観覧者をまるで公園にいるような気持ちにさせる。
桜の作品と地平線を眺める人々の作品が、それぞれ対になって並ぶ。
美しいレイアウトも見どころの一つだ。
『Verdigris』 — 緑青の“錆”という名を与えられた作品
ポール・グラハムは、一連の作品に『Verdigris』というタイトルを与えた。『Verdigris』とは、「銅が酸化することで生成される錆」を意味する。こんなにも美しい桜や、夕暮れ(もしくは朝日)の地平線を捉えた作品に“錆”という名前をつけるとは、少々奇妙に思えた。しかし、『Verdigris』は絵の具の色でもあり、深いエメラルドグリーンのような美しい緑青の色彩を放つ。よくよく思い出すと、NYの自由の女神や日本の鎌倉大仏、ここベルリンにあるベルリン大聖堂の巨大なドームも、保護の目的も兼ねて緑青に覆われている。
作品を鑑賞し、タイトルの意味を考えていくと、日本語の「侘び寂び」という言葉の「寂び」の意味合いを強く感じてきた。「寂び」とは時間の経過によって表れる美しさのことである。この世のものは時が経つにつれ汚れたり、欠けたりして変化してしまうが、それを劣化と否定的に捉えるのではなく、変化がもたらす美しさを「寂び」と呼び、肯定する。写真に写る地平線を眺める人々の背中を見ていると、地球上に存在するちっぽけな私たちの美しくも儚い短い人生が浮かび上がるように感じた。そして、幻想的な桜の作品からは、誰も止めることができない時間の流れを感じ取れた。
“錆”を意味するタイトルの作品に、日本語で同じ発音をする“寂び”を感じたのは単なる偶然だったのか、それとも、ポール・グラハム自身が意図していたことなのかはわからない。作品は時代や人種を越え、鑑賞者にそっと問いかける —「人生とは束の間であっけないものかもしれないが、時間が流れ、朽ちていくことは美しい」 、と。地平線を思慮深く見つめる人々。
ニュージャージー州の公園内では、季節に関係なく、人々は立ち止まってこの地平線を眺めている。
“エラー”が生み出す美しさ — 美しさが朽ち果てる様、銅の酸化や枯れ続ける花は誰にも止められない
桜が写る作品を一点一点鑑賞していくうちに、ある違和感を覚えた。 地平線を臨む人々の作品には、引きの構図やシャープな描写、深い被写界深度が際立っていたのに対し、桜の作品はクローズアップされ、被写界深度が浅いだけでなく、全体の印象がどこかぼやけている。それはまるで、写真と印象派の絵画の間を揺れ動いているような表現だった。
この独特の質感は、インクジェットプリント時のノズルの擦れによるものなのか、それとも意図的に印画紙の裏面に印刷することで絵画のような表現を生み出しているのか。写真家やアーティストが“エラー”を意図的に作品に取り入れることは珍しくない。しかし、ポール・グラハムの桜の作品は単なる技法以上のものを感じさせた。それはまるで幽霊のように私の目に焼き付き、そっと、しかし力強く胸に取り憑いて、なかなか離れなかった。色彩や構図は違えど、クロード・モネの作品を思い出させた。
カメラが捉えた美しい桜の“幽霊”
後日、この作品について調べたところ、桜は微妙に変化する複数の露光を重ねて撮影され、超高解像度に設定したデジタルカメラで捉えられていたことが分かった。その仕上がりは、そよ風のわずかな動きにかき乱されているようでもあり、目覚めた直後のまだ焦点が定まらない視界、あるいは頭がぼんやりしているときに瞳が捉えた映像のようにも見える。
桜の作品、地平線を眺める人々の作品、そしてそれを見つめる観覧者。この三者を親密に結びつけているものは何なのだろう。それは、桜の作品があえて“エラー”のようにぼやけた表現で撮影されていること、そして、地平線に写る朝日または夕日の美しさが、どちらも“時間と人生のメタファー”を内包していることにあるのではないだろうか。そのメタファーが、作品と観覧者の心の距離をぐっと縮めたのだ。
「完璧」ではない描写で捉えられた美しい桜。 そして、地平線を見つめる人間という小さな存在。 それらが交差するこの展覧会は、「儚さの交差点」とも言える、忘れがたい芸術体験を私に与えてくれた。額装も裏打ちもなく、浮遊する作品。
どんな展示空間が広がっているのか、想像が広がる入り口。
Paul Graham | Verdigris 展覧会開催概要
会期:2025年1月18日(土)〜2025年2月22日(土)
時間:11時〜18時
休館日:日曜・月曜
会場:carlier | gebauer, Berlin
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