短編小説「波とランプシェード」

寄稿者:風野湊(小説家)

    
 夜明け前。目覚めた鴎が一羽二羽と寝ぐらから飛びたつのと同じころ、古いガラス工房に灯りがついた。
 住みこみのガラス職人がひとり、曲がった腰に手をやって、ぎしぎしと鳴る階段を降りてゆく。春先の夜明けは肌寒い。身支度を整え、上着を羽織り、さて雨戸を開けようと外に出ると、軒先に女が佇んでいた。ガラス職人は肝を潰し、驚きのあまり悲鳴もあげられなかった。
 女はずぶ濡れだった。濡れそぼった黒髪から絶え間なく雫が伝いおちていた。一晩じゅう雨に打たれたかのようなありさまだったが、雨は真夜中に通りすぎたはずだ。あるいは夜明け前から海でひと泳ぎでもしたのか。どちらにせよ訝しい。下手に関わるまいと、ガラス職人はぴしゃりと引き戸を閉めようとした。
 もし、と彼女は言った。風鈴のような、快く明朗な声であった。
 シェードをいただきたいの、と彼女は言った。
 ガラス職人は引き戸を途中で止め、思わず訊いた。ランプシェードをご所望なのか?
 女はいとけなくはにかんで、こっくり頷いた。
 こんな時間に現れる客など、幽霊か、物の怪のたぐいに違いない。ガラス職人は足元を見た。女にはきちんと両脚があったが、靴を履いていなかった。ふくらはぎの湾曲にぴったり張りついたワンピースから、桜貝を並べたような爪先へ、はたはたと水が滴るさまは、幽霊にしては艶めかしい。しかし、濡れたまま夜風に吹かれたにしては、女には寒々しいところがなかった。ぬばたまの瞳は光に澄み、頬はばら色で、唇も血色がよかった。震えてすらいない。やはり物の怪ではあるまいか、一度は返事をしてしまったし、追いかえしては呪われるやもと、迷信ぶかいガラス職人は思い悩んだ。そこに包みが差しだされた。
 お代はこちらで足りるでしょうか。女が開いてみせた包みには、つややかな真珠の粒が、飴玉のようにざらざらと詰まっていた。
 貴方がたのお仕事はよく存じておりました、と彼女は言った。ここで作られたランプの灯が窓辺を明るく照らすのを、長らくわたしは眺めてまいりました。これから居を移る旅路の支えに、思い出に、この町のランプシェードを携えてゆきたいのです。
 ガラス職人はしばし黙った。それから呟いた。充分だとも、お嬢さん。明日には真珠がガラス玉に変わっているやもしれないが、そのときは自腹を切っても良いという気になっていた。女の口ぶりはあまりに素直で、やれ物の怪だの呪いだのと悩む気がすっかり削がれてしまった。

 操業前の薄暗い工房に、ガラス職人は女を招きいれた。床に水が滴るので間にあわせにタオルを貸した。
 直販用の在庫がいくらか残っている。好きなのをひとつお選びなさい。
 女は目を輝かせ、緩衝材のクレープ紙をかさかさ言わせながら、ランプシェードを取りだしては明かりにかざしていった。ガラス職人は手持ち無沙汰で、かといって目を離すのもためらわれ、棚にもたれて煙草をふかした。紙巻の先で、呼吸とともに小さな灯がまたたいた。
 まあ、火だわ。女は目を丸くして大きな声を出した。それから口元を押さえた。ごめんなさい、失礼を、こんなに近くで火を見たのは初めてだったものですから。
 やはり人間ではないらしい。ガラス職人は笑みをひきつらせつつ、とはいえ乗りかかった船だと腹を括った。へえ、お嬢さんの故郷では、そんなに火が珍しいのかね?
 ええ、と彼女は言った。とても。だって、お爺さん、水底に灯る火があって?
 わたしたちの知る火はたったひとつ、空をめぐる天日だけ。夕暮れに海へと落ちてはきても、けっして波間に触れはせず、暁にふたたび現れるまでどこかへかき消えてしまうもの。海原において、火と炎の、なんて稀有で儚いことでしょう。
 言い終えてから、女は気恥ずかしそうに微笑んだ。
 大袈裟な物言いをいたしました。たったひとつではございませんね。海辺の町々に灯る火に、船を導く灯台のまたたき、夜波に揺れる漁火も、わたしたちの優しい慰めだったのですから。
 ガラス職人は煙をはいた。天井から吊り下がる裸電球の光が、白くけぶった。人魚のようなことを言いなさるね、お嬢さん。
 まあ人魚だなんて、お上手ね。あの美しき方々は、もうどこにもいらっしゃらないわ。
 小さな声で笑って、女はひとつのランプシェードをかかげた。これが気に入りました、と彼女は言った。浮き玉のような、青みを帯びた透明なガラスにうっすらと白の色彩を差した、それはちょうど、老齢のガラス職人が仕上げを担当した品だった。ガラス職人は、そうかい、とだけ言って、煙草の火を消した。
 ランプシェードの梱包を女は断った。このまま持ってゆきます、とガラスの玉を細腕に抱いた。うっかり落として割らなければ良いが、と思いつつ、ガラス職人は別のことを訊いた。お嬢さん。転居先に、そのう、そいつを被せるランプはあるのかね。
 いいえ、と女は答えた。もちろん、どこにも。だけど、これを波間から太陽に重ねたら、きっとすてきな日暈が見えることでしょう。
 深く一礼して、女は去っていった。床を踏む足音がひたひたと遠ざかり、ガラス職人はひとり、静まりかえった工房でぼうと立ち尽くしていたが、やがて夢から覚めたように瞬きをした。慌てて外に出た。通りには誰もいない。濡れた足跡だけが残されている。年寄りの歩調で後を追えば、足跡は砂浜に降り、まっすぐに波打ち際へ踏み入っていた。 水平線にただよう雨雲の名残から日が昇り、はるか上空に広がる巻層雲をあわく色づけた。群青の玻璃の海原の、沖まで続く光の道で、なにかがきらりと反射したような気がした。


 

Profile

風野 湊 / 小説家

1990年生まれ。現在の代表作は、熱帯雨林の樹木変身譚『すべての樹木は光』(2020)、即興小説に基づく短編集『永遠の不在をめぐる』(2014)など。幻想の質感が伴う風景描写を得意とする。 


▼著者の寄稿文一覧
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▼小説のモチーフになった作品
「光の輪」写真=中村風詩人
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