日々も旅もほがらかに。 第二話「ベーリング海の上で」


 At Sea Day 店主による旅エッセイ。
 笑ったり転んだりしながら、
 日々も旅もほがらかに。
 


毎日をぱたぱたと過ごしているうちに、気付けばもう出発前日になっていた。急いでスーツケースを広げて荷造りを始める。あまり大きな声で言うことではないが、これは私の旅のお決まりパターンだ。

まだ実家暮らしをしていたときのこと、私以外の家族はいつも出発日の一週間前には荷造りを終えていた。それぞれの自室に綺麗に置かれたスーツケースは今か今かと旅立つ日を心待ちにしているかのようで、その姿はどこか誇らしげにも見えた。それを横目に、「血が繋がっているのにこうも違うなんて」と首をかしげていたのをよく覚えている。そんなことを考えている間に準備を始めればいいのだが、現実はそう簡単にはいかない。

それから随分と長い月日が経ち、私もすっかり「いい大人」と言われる年齢になった。しかし、旅の準備の仕方は全くと言っていいほど成長していない。どうやら人の本質というものは単に誕生日を繰り返すくらいでは変わらないらしい。

そんなわけで、今回の旅も例に漏れず慌ただしく始まった。寝ぼけ眼をこすりながら早朝の電車に乗る。乗り換えた駅で成田エクスプレスのチケットを発券できたのは発車3分前。今までは空港行きのバスが一日に何本も出る駅に住んでいたのもあり、意外にも成田空港に電車で向かうのはこの日が初めてだった。もちろん問題はそこではなく、それに当日まで気付かないことだ。自分で自分に呆れながらも、乗り込んだ列車の窓からすっかり太陽があがりきった空を眺めていた。

"慌ただしく" と前述したものの、私は時間に余裕がないことが苦手な方だ。人と待ち合わせをするときは遅くとも10〜15分前には指定の場所に着いていたい。もちろんそれは船の乗船時間や飛行機の搭乗時間にも当てはまる。飛行機で移動する場合は2時間半〜3時間前には空港に到着しておきたい。諸々の手続きを焦らず済ませ、自分の出発ゲートを一度確認した後で、珈琲を飲みながらほっと一息つく時間、最後のメールチェックなどをする時間があると理想的だ。この日もそんな理想の珈琲タイムを確保するため、そして数年ぶりの国際線ということもあり、余裕を持って早朝の電車に乗っていたのだ(それができるのになぜパッキングが直前になってしまうのかは自分でもいまいち解せない)。

空港に到着し、「さて、まずは何をするんだっけ」と以前の記憶を手繰り寄せる。荷物を預け、保安検査を受け、出国手続き… 今回はアプリで事前チェックインを済ませていたものの、必要な工程をひとつひとつ片付ける度に不慣れな手付きでパスポートを出したりしまったり。「こんなにやること多かったかな」と、ここでも海外から離れていた5年という歳月を感じていた。島国から飛び出すのだからやることが多いなんて当然と言えば当然なのだが、かれこれ8年近く仕事で客船に関わる機会をいただいているのもあり、船で海外に行くほうが遥かに楽に思えてしまったのだ。例えば、世界一周クルーズで数十カ国を周る旅程であっても、乗船時にパスポートを預けてしまうため、その後はシンプルな手続きで多くの国を訪れることができる。部屋ごと移動できる点も含めて、前日にパッキングを始める私のようなずぼら人間にはぴったりのスタイルとも言える。

そんなことを考えながら指定のロビーまで歩いていると、大きな窓の向こうで爽やかな水色の機体が煌々と太陽に照らされているのが目に入った。その凛とした姿に一瞬で心を奪われた私は、リュックからいそいそとカメラを取り出し、この旅で初めてのシャッターを切った。

「やっぱり飛行機も格好いいな」

数分前には船旅を恋しく思っていたというのに、こうも単純だと自分に笑ってしまう。ふと、「人の心は深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います」という星野道夫さんの言葉を思い出した。
無事に飛行機に乗り込み、昔と同じように窓際の席に腰をかける。普段から声が通りにくいため通路側の席にするか少しばかり迷ったが、久々の国際線ということもあり、移り変わる風景を心ゆくまで眺めたいと思った。

一度目の機内食を食べ終わった頃だったろうか。窓の外に目を向けると、先ほどまで雪で覆われていた世界が一変していた。フライトマップを確認してみると、どうやらベーリング海の上を飛行中らしい。広がる雲海の先にゆっくりと沈んでいく夕陽。何層にもなる分厚い窓に青と赤のグラデーションが滲む。夕陽が沈むのを空の上から眺めるのはいつぶりだろう。窓際の席から、目の前に広がる島の形、海や空の表情と、小さな画面に映し出されるフライトマップとを交互に見比べるのが楽しくて仕方なかったあの頃を思い出した。10代から20代、そして30代になった今でもそれは変わっていないようだ。海外へ行かない間に変わったことも数え切れないほどあるが、こうして変わらないことを見つけると、どこか面映ゆくも嬉しくなる。

きっとこのあと待っている旅のなかでも、「変わったこと」「変わらないこと」をひとつひとつ見つけていくのだろう。 私はそっと窓のシェードを閉め、そんな期待に胸を膨らませながら眠りについた。

 

写真・文=帆志麻彩