ある一人の写真家と、私の矛盾について

この場所を始めるにあたり、周りの方々から度々同じような質問をいただきました。


「自分で撮影した写真は販売しないの?」
「たくさん旅をして写真を撮っているのにどうして?」

"自分の作品はこの先も販売しない" と決めたわけではありません。「購入したい」とありがたいお言葉をいただけるときもあり、それはもうその場で飛び跳ねたくなってしまうくらいの気持ちです。また、 "アート作品は写真のみを取り扱う" と決めているわけでもありません。


ただ、今の私には「一人でも多くの人のもとへ届けたい」、心からそう思える作家の作品があります。

質問の回答になるかはわかりませんが、以前そのことについて頭を整理しようと記していたものがありますので、一部加筆訂正し再編集したものをここに載せたいと思います。ぜひ読み進めていただけると嬉しいです。

– 2016年9月/自室で書いた日記より –


私にとって "写真を撮る" という行為は、特別なものではない。きっとそうであることが当たり前のように、生涯写真を撮り続けるだろう。

"それで生きていきたい" というよりは、 "自己と対話をする手段" という方が感覚的には近いかもしれない。だからそれをしない人生は到底考えられない。ただ、こうして頭の中を視覚化しようと思い立った理由は例外ができてしまったから。


それは、ある一人の写真家との出会いがきっかけだった。


私の目が、心が、その人のフィルターを通して写し出される世界に触れると、「今すぐにでも写真を撮りたい」という強い衝動と、「この先もう自分では写真を撮らなくてもいいかもしれない」という不思議な充足感…  そんな矛盾した感情が同時に生まれてしまうのだ。

もっと言えば、もし仮に "この先一生写真が撮れなくなる"  もしくは  "その人の写真に触れることができなくなる"  という究極の選択を迫られたとしたら、私は前者を選んでしまうかもしれない。

ふり返ってみれば、写真に出会ってから10年以上もの月日が経とうとしているが(今や誰にとっても身近なものであるのにこんな表現をするのは少しおかしいかもしれない)、未だ嘗てこんな思いに駆られたことがあっただろうか。「私はきっと感受性が低いんだ」と、何か展示を観に行く度に思い悩んでいた学生時代が嘘のようだ。

だからこそ、初めは自分の感情を受け止めきれずに「もしかしたらこの一枚の写真に限ってのことなのかもしれない」と考えたりもしていた。だが、どの作品に触れても不思議と同じ感情が沸き起こり、頬をつたるものがあるのだ。


その人は、とても優しい距離感で世界を写していく。ただただ美しく、嘘のない光を纏った世界を。そこには夢の中に誘われていくような心地よさがあり、体中の細胞がいつまでもその中にいたいと願う。そして私は、時が経つのも忘れて写真に触れてしまう。繰り返し、繰り返し。


「言葉にしてしまうのが勿体ない」

こんな感情もその人の写真から教わった。
そう思いながらもどうにか言葉にできないかと思う私は、その心地良い世界に触れる度、こうしてまた新たな矛盾と向き合うことになってしまうのだ。 



写真=中村風詩人
文=帆志麻彩

 

 

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