目的を持たない時間がくれる、心の余白 ― オランダ最小の町・ブロンクホルストを歩く旅

旅の目的地を決めるとき、私たちはつい地図の上で大きく目立つ場所を探してしまう。観光名所がある都市、誰もが知る象徴的なスポット。けれど、時として人生に深く刻まれるのは、豆粒ほどにしか見えない場所での、何気ない時間だったりする。

オランダ東部、アムステルダムの喧騒から遠く離れた地に、ブロンクホルスト(Bronkhorst)という町がある。「オランダで最も小さな町」という称号を持つこの場所は、かつては都市権を持つ立派な市だったというが、今では人口も少なく、まるでおもちゃ箱をそっと野原に置いたような、静かな佇まいを見せている。

私がその町の小さな通りを訪れたのは、春の光が優しく降り注ぐ、ある晴れた日のことだった。


時が止まった石畳の記憶

ブロンクホルストに一歩足を踏み入れた瞬間、肌に触れる空気が少しだけ変わったことに気付く。そこには、中世の面影がそのまま息づいていた。近代的なアスファルトの道は少なく、どこまでも続いているのは平らな石畳。重厚なレンガ造りの家の窓辺には色とりどりの花が飾られ、まるでこの町を訪れる人たちを優しく迎え入れているかのようだ。

町の通りを歩くのに地図はいらない。そもそも、迷うほどの広さがないのだ。けれど、一歩進むごとに足を止めたくなる魔法がかかっている。アンティークショップのショーウィンドウに飾られた古い時計、小さなギャラリーに展示された素朴な絵画、そして静かに佇む教会の塔。それらがまるで宝探しのように、あちこちに点在している。
旅先で、ただのんびりと歩くこと。それは現代において、最も贅沢な行為のひとつかもしれない。普段の生活の中で、私たちは常に「次」を追いかけている。次の予定、次の電車、次の返信。効率という見えない鎖に繋がれ、立ち止まることを恐れてしまう日々。けれど、この町の石畳の上では、時計の針があきらめたようにその歩みを緩めていた。自分の足音、カフェで話す人たちの笑い声、どこかの牧草地から聞こえるのんびりとした動物の鳴き声だけが、世界を包みこんでいる。

何か特別なものを見るわけでもなく、ただその場に身を置く。目的を持たない歩みは、心の中に「余白」を広げてくれる。その余白があるからこそ、私たちは世界が発している微かな音や光の変化、そして自分自身の内側の声に気付くことができるのだろう。

17世紀から伝わる、黄金色の甘い誘惑

心が洗われていく感覚を覚えながら歩いていると、一軒の店が目に留まった。アイビーを纏う壁に誘われるようにして扉を開ける。

あとで調べてみたところ、ここはホテルに併設されたカフェのようだ。この町で最も古い建物の一つで、一番古い部屋は1575年に建てられたという。

テラス席に座りメニューを開くと、アップルパイのような絵が描かれているのを見つけた。オランダを旅するならこれを食べずにはいられない。オランダのアップルタルト(Appeltaart)は、私たちがよく知るアップルパイとは少し違う。もっと素朴で、どっしりとしていて、家庭の温もりを感じさせる伝統菓子だ。

その歴史は驚くほど古く、17世紀、いわゆるオランダの黄金時代にはすでに親しまれていたという。レンブラントやフェルメールが生きた時代の人々も、同じようにシナモンの香りに心を躍らせていたのだろうか。

運ばれてきたタルトは、見事なまでの黄金色をしていた。たっぷりと詰め込まれたリンゴのフィリングは、凝縮された甘みと微かな酸味、そしてシナモンの香りが口いっぱいに広がる。生地はサクサクとした歯ごたえで、バターの深いコクが後を引く。その横にはホイップクリーム(Slagroom)が添えられ、それらと一緒に珈琲を楽しむのが "オランダ流" らしい。

フォークを進めていると、テラスのテーブルに一羽の小鳥が飛んできた。丸々と愛らしい姿をしたその子は、首をひょいとかしげながら、じっと私のタルトを見つめている。この黄金色の甘い誘惑は、人間だけのものではないらしい。

「あなたもこれが食べたいの?」

思わず声に出してしまいそうになるのをこらえ、心の中で話しかけてみる。小鳥は恐れる様子もなく、ぴょんぴょんとリズムよく跳ねては、器用にこちらの様子を伺っている。

言葉は通じなくても、美味しいものを分かち合いたいという空気が、その小さな空間を一層やわらかなものに変えていく。17世紀から続く伝統に、現代を生きる私と一羽の小鳥が心を躍らせている。そのささやかな巡り合わせが、なんだか無性に嬉しかった。

「何もしない」という贅沢を自分に贈る

カフェを出ると、陽の光はオレンジ色を帯び始めていた。町は西日を受けてその陰影を深くしていく。

旅の充実度は、訪れた場所の数や、撮った写真の枚数で決まるわけではない。その場所でどれだけ自分自身に戻れたかで決まるのだと思う。

小さな町は、私たちに多くを求めないことの心地良さを教えてくれる。ここには最新のテクノロジーも、巨大なショッピングモールも、私たちを追い立てる電光掲示板もない。季節の移ろい、古き良き石畳、そこに差し込む柔らかな光、人々の小さな笑い声があるだけだ。

けれど、生きているという実感に繋がる確かな手触りがある。誰かと競ったり比べる必要もなく、何かに追われることもない。ただ光を浴び、風を感じ、小鳥とタルトを囲む。そんな時間が、どれほど私たちの心を健やかに、そして豊かにしてくれることだろう。

日常のスピードに少しだけ疲れを感じたとき、自分自身を見失いそうになったときは、どこかの小さな町を訪れてみてほしい。

見知らぬ小さな町を歩くことは、自分の中に散らばっていたピースを、ひとつひとつ拾い集める作業に似ていると思う。一歩踏みしめるごとに、余計なものが剥がれ落ち、心が平らになっていくのを感じるはずだ。


私は最後に、歩いてきた道をふり返った。

旅が終わっても、この町の風景は私の中で消えることはない。目を閉じれば、いつでもあのシナモンの香りと、タルトを欲しがっていた小鳥の眼差し、そして時計の針を止めた静寂を思い出すことができる。ブロンクホルストで見つけた静かな春の記憶は、これからも私の中でお守りのように寄り添い続け、明日を歩むためのささやかな勇気となるだろう。

◇ ブロンクホルスト・オンデル通り|Bronkhorst Onderstraat
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◇ アップルタルトを食べたお店|Appeltaart
住所:Bovenstraat 2, 7226 LM Bronkhorst, The Netherlands
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写真・文=帆志麻彩