一雫の世界の変化に気付けるように


ある gallery の棚の隅のほうに置かれ、しかし確かな存在感を放っていた小さな本。少し端が破れた背表紙には『寺山修司少女詩集』と書かれていた。

寺山修司さんの詩に触れたのは、そのときが初めてだったと思う。

魅力的な写真集や画集、小説などがたくさん並ぶなか、いつのまにか私はその小さな文庫本に手を伸ばし、徐にページを捲るとそのまま立ち尽くしてしまった。 

「一番みじかい叙情詩」

なみだは
にんげんのつくることのできる
一ばん小さな
海です  
つきよのうみに
いちまいの
てがみをながして
やりました

つきのひかりに
てらされて
てがみはあおく
なるでしょう

ひとがさかなと
よぶものは
みんなだれかの
てがみです

 

身体中に染み渡らせるように、心の中で何度も詩を繰り返した。

海にながした手紙は、そこに綴られた言葉は、一体どこへいくのだろう。魚になって大海原を自由に泳いでいるのだろうか。


この詩を初めて読んだ当時、私はコミュニケーションにおける「言葉」の難しさに頭を悩ませていた。口に出して、文字に書いて、想いを込めて伝えた言葉も、一度自分のもとを離れてしまえば、その解釈は相手に委ねられる。如何様にも姿かたちを変えてしまう(もちろん自分が相手から受け取る言葉も同様に)。それならば、伝えないほうがよいことだってあるのかもしれない。何を伝えて、何を伝えなければいいのだろうか。そんなことを考えながら、どうしたら良いのかわからずに悲しくなっていたのだ。

けれども、相手に届けられなかった言葉があったとして、何をそんなに打ちひしがれる必要があるのだろう。詩を繰り返し読むうちに、ふとそんなことを思った。

自分という存在、考え方、それらは色々な出会いや経験を重ねて少しずつ変わっていく。相手に委ねた言葉だけではなく、自分のもとを離れなかった言葉だって、時間が経てば気付かぬうちに変化しているかもしれないというのに。

だとしたら、一度海に預けてみてもいい。月に預けてみてもいい。言葉のもたらすものなどほんの僅かだと、滲む月に祈りながら海と沈黙の会話をしたっていい。


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届けられなかった言葉があるとき、今でも時折この海の詩を思い出す。

ながした手紙が魚になっても海に預けておきたいのは、「いつの日かこの想いが、長い長い旅路の果てに、どうかあなたの海へと辿り着きますように」と、そう願っているからかもしれない。


それなら私は、心のなかに小さな海を持っていよう。

いつでも手紙をながせるように。
いつでも魚が泳げるように。

あなたの海へと辿り着くことができたとき、魚が跳ねるそのほんの一雫の世界の変化に気付ける私でいられるように。

 



文=帆志麻彩