惰性で感動は生まれない。奇跡でも魔法でもない、船の上の45分

写真・文=帆志麻彩

慣れというものは、なかなか厄介だなと思う。

どんなに素晴らしい景色を見ても、どんなに美味しいものを食べても、そこにスススっと慣れが忍び込んでくると、人間の感覚なんてものはあっという間に鈍くなってしまう。ちょっとやそっとのことでは心が動かなくなって、「まあ、こんなものか」と受け流してしまったり。

これは、ものづくりや仕事に対しても同じことが言えると思う。慣れた手つきで、そつなく、そこそこにこなす居心地のよさ。あのなんとも言えないぬるま湯感は魅惑的で、一度浸かったらそう簡単には出られない。

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船の上という、ちょっと特別な場所の仕事に携わるようになってから8年以上が経つ。船内では日々華やかなメインショーや講演が行われていて、身近にいる先輩はもう10年以上そのステージの上に立ち続けている。私はその背中を少し離れた場所から眺めてきた。

その人は毎回、まるで初めて人前に立つかのように、おそろしく地道な努力を続けている。一つのショーや講演を作るために、10冊以上の本を穴が開くほど読み込んで勉強しているときもある。そして、どんなテーマであっても、45分間のトーク内容をすべて頭に叩き込み、メモひとつ見ずに、完全な自分の言葉にして客席に語りかけている。お客様から見れば、それはとても華やかで、流れるように心地良い時間だ。けれど、その裏側にあるのは膨大な練習と、気の遠くなるような準備の積み重ねなのだ。

目の肥えたお客様に向けて作るのだから、ただ美しい写真や動画をぽんぽんと並べるだけでは満足してもらえない。ぐっと引き込まれる構成のスライドをつくり、それを映し出す絶妙なタイミングをはかる。身振り手振り、声のトーンや抑揚、お客様に向ける視線の配り方、ふっと入れる間の取り方まで。

どれかひとつだけが飛び抜けてうまくてもダメで、それぞれの技術がパズルのように綺麗にはまって、初めて感動に包まれた空間が出来上がるのだ。

もちろん、船の上には様々な人がいる。長年の経験から慣れを上手に使いこなし、そつなくステージをこなしてしまう人も中にはいるのかもしれない。失敗もしないし、それなりにお客様を楽しませる術を知っているからこそ、それもプロのひとつの形ではあるのだろう。けれど、私が胸を打たれるのは、どれだけ場数を踏んでも決して慣れに甘んじない人たちだ。

リハーサルでの真剣な姿や、本番直前までの追い込みを見てきて、私はつくづく思った。もし先輩が、「まあ、10年もやっているからね。いつも通りやれば格好はつくか」と惰性でステージに立っていたらどうだろうかと。おそらくそれなりのものは出来上がるし、失敗することもないはずだ。けれど、終演後に客席からあふれ出すような、あの惜しみない拍手喝采は生まれないだろう。

船旅の醍醐味は、賑やかな催しや目的地へ向かう高揚感だけではない。果てしない海の上をゆらりゆらりと移動していく時間の中で、ふと自分の内なる好奇心を揺さぶられ、心に新しい風が吹き込んでいく。そんな贅沢な体験が叶うのも、クルーズ客船で旅をする魅力だと思う。

旅慣れたお客様が、まだ見ぬ知的好奇心の旅へと連れ出されていくあの瞬間。あれは奇跡でも魔法でもなくて、逃げずに準備し続けた人の想いがちゃんと届いた結果なのだ。

美術館で名画の前に立つとき、私たちは描かれた絵の美しさだけでなく、その裏にある画家の葛藤や気の遠くなるような筆の痕跡に思いを馳せて胸を打たれることがある。それぞれのプロの世界の先輩方が作り出すステージもまた、それと似ているなと思う。

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思い返せば、私にも自分の力を過信していた時期がある。まだ本当のプロの世界を知らなかった頃、自分は何でも撮れる気がしていた。若さゆえもあるが、根拠のない全能感に包まれていたような気がする。周りから「上手だね」と褒められるたびに素直に鼻を高くして、自分の力に満足していたのだ。単に自分より上の世界を見ていなかっただけなのに。

悪気があるわけではない。ただ自分がどこに立っているのかを、自分の未熟さを知らなかった。誰かが満足できるものを提供して、喜んでもらえるならそれも仕事のひとつの形ではあるけれど、その先に広がる果てしない高さを知らないでいるのは、どこか「井の中の蛙」だ。それはそれである意味では幸せなのかもしれないが、圧倒的なプロの仕事と、その裏にある途方もない準備の積み重ねを目の当たりにしたとき、自分がいた場所がいかに小さな水たまりだったかを思い知らされたのだった。

そんな先輩の真摯な背中を見ていたら、ある俳優の言葉が頭をよぎった。小日向文世さんだ。誰もが認めるベテランでありながら、今でも舞台や撮影の前には相当な緊張感を抱えて役に臨み、「吐き気がするほどセリフを繰り返し自分の中に入れ込む」と何かのインタビューで語っていたのが印象的だった。あんなに見るものを自在に魅了しているような人が、裏ではそれほどの負荷を自らにかけているというのだ。

プロフェッショナルと呼ばれる世界とはそういうことなのだろう。どれだけ経験を重ねても、慣れという甘い誘惑に逃げず、毎回ちゃんと怖がり、準備を重ね、自分と真正面から向き合い続ける。

対して、自分自身のことを考えてみる。私だって慣れない仕事や自分のキャラクターに合わない役回りを振られたときには、ご立派にしっかりと緊張してしまう。胃がキリキリとしたり、「上手くできるかなぁ… 憂鬱だなぁ…」と心の中でつぶやいたりもする。お仕事をいただいているというのに、なんとも甘っちょろく、贅沢な話である。

けれど、なぜそんなに不安で憂鬱になるのかの答えは、先を歩く先輩方の背中がしっかりと教えてくれている。そう、答えは実にシンプルだ。要するに、その不安を完全に拭い去れるほどの努力や事前準備ができていないからなのだ(自分で言っていて耳が痛い…)。

気が遠くなるほどの準備をやり切って現場に立てば、本番の緊張感さえも味方につけて、きっと真のプロフェッショナルとしての価値を提供しながら、心から楽しむ境地に辿り着けるのだろう。けれど、そこまで自分を追い込むのは、言うほど簡単なことではない。だからこそ人はつい、「このくらいでいいか」と、手頃なところで自分を納得させたくなる。

言うは易く行うは難し、である。

言葉にするのは簡単だけれど、自分の日常や仕事の手元をふり返ると、なんだか胸がチクリと痛む。なにしろ本来の私は、できるならずっと、日当たりの良い場所でまどろみながら、ふわふわゆるゆる生きていたい人間である。

慣れという名のぬるま湯は、いつだってすぐ隣でいい塩梅の湯気を立てて私を誘惑してくる。「ほらほら、おいで。こっちの湯加減は最高だよ、失敗もしないし楽ちんだよ〜」と。けれど、そこに浸かってふやけた手でつくったものは、きっと誰かの心を動かすことはできない。

惰性で感動は生まれないのだ。

慣れた環境に甘んじず、ちゃんと怖がりながら、プレッシャーを感じる仕事も受け続けること。目の前にあるひとつひとつの仕事や表現と逃げずに向き合っていきたいものだなと、改めて背筋が伸びたのだった。



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