短編小説「クリスマスを奏でた後に」
寄稿者:風野湊(小説家)
「きみ、あの窓を取ってきてはくれないか」
耳元で囁かれたかのような声だった。
驚きのあまり大階段を踏み外しそうになり、巡航客船のピアノ弾きは手すりを強く掴んだ。
姿勢と息とを整え、視線をめぐらせる。誰もいなかった。きらびやかに飾りつけられた吹き抜けのラウンジは静まりかえり、クリスマスツリーを彩る電飾ばかりがチカチカと瞬いている。LEDの規則的な輝きが目につき刺さるようで、ピアノ弾きは眉間を揉んだ。とても疲れていた。クルーズに集った乗客たちのために、聖夜のあいだ船内各所でひたすらにクリスマスソングを弾きつづけ、ようやく二十六日に辿りついたのだ。いまは深夜三時、乗客もみな眠りに着いた頃だろう。自分もきっと一瞬、歩きながらに眠りこんで、夢でも見たに違いない。ピアノ弾きは重い瞼をこすり、しっかりと手すりを握り直して、ふたたび階段を降りはじめた。
「どういう了見だい、聞こえているのに無視するだなんて?」
声がまた囁いた。ピアノ弾きは呻いた。
「勘弁してくれ。死ぬほど疲れてるんだ」
「おや。それは悪かったね、気づかなかったんだ。でもどうか頼みたい。朝までに、また都合よく誰かが通りかかるとも限らないし」
トン、トンと、慎重に一段ずつ階段を降りながら、ピアノ弾きは声を無視した。ゆるくカーブを描く大階段の、その一段一段に敷き詰められた絨毯の模様だけを注視した。巨大な巡航客船はほとんど揺れを感じさせない。海の上にいることを忘れそうになるほどに、足元は安定している。ようやく最後の段に着いた。
「行かないでおくれよ」
声が哀れっぽく言った。
「明日までの命なんだ。最期の願いくらい叶えてはくれないか」
「……」
ピアノ弾きは眉間に思いきりしわを寄せて、階段を降りきった。ゲストの前では絶対にこんな顔はしない。だが、周囲には誰もいないのだ。ラウンジに並ぶソファもテーブルも、空席のままひっそりと眠りについている。この謎めいた囁きは、どう考えても持て成すべき相手ではない。良くて空耳、あるいは唯の夢。もしくは幽霊。
幽霊か、とピアノ弾きはひとり笑った。船上に幽霊がいるものだろうか。まあ、でも、クリスマスなのだ。クリスマスに幽霊は付きものだ。ディケンズがそう決めた、百年以上も前に。
「クリスマス・キャロルをご所望なのか?」
「なんだって? 聞こえなかったのか、きみ。そんなことは頼んでいない。あの窓を取ってきてくれと、そう言ったんだ」
「言いたいことはいくつかある。おれは今、眠くて、くたびれていて、めちゃくちゃに疲れていて、機嫌がよくない。一刻も早く眠りたいんだ。それなのに、姿も見せない謎の声に、変てこな頼みごとをされている。あんたは幽霊か?」
「幽霊だって? 姿も見せないだって?」
声は憮然とした響きを帯び、さらに深いため息をついた。間近で聞こえたその吐息に、ピアノ弾きは思わず耳を押さえた。この距離で吐息をつかれたなら、髪が揺れても良さそうなものを、耳元の髪は微動だにせず、隣には誰の気配もなかった。声は不満げに言い募った。
「しっかりしたまえ、いくら疲れているといっても、きみの目と鼻の先だ。見えないのかい、この煌びやかな光が。枝に抱いた百のオーナメントが。頂きのまばゆい星が、人間たちが嬉々として飾りつけた、この巨躯が見えないと言うのかね?」
ピアノ弾きは口を開けて、閉じ、大階段の傍に佇むクリスマスツリーを見上げた。空気に淡くモミの香りが漂っていたことに、そのとき初めて気がついた。
「変な夢だな」
ピアノ弾きはひとりごちた。どうやら自分はもう眠っているようだ。演奏者たちの控室でか、自室でかは分からないが。
「夢と思うならそれで結構。さあ、姿は見えただろう。頼みを聞いてくれるかな?」
「あんたは知らないのかもしれないが、窓というものは簡単に取ってこれるものじゃないんだよ」
「まあ、そう言わず。一度くらい試してごらん。ほら、すぐそこの、あの窓だ。綺麗だろう。月が海面を青く照らしている。そこから、ひょいと手を伸ばしてくれるだけで良いんだ」
ピアノ弾きはラウンジの奥を見やった。たしかに丸い船窓が並んでいる。深夜のこと、ラウンジの照明は絞られているが、それでも外の夜よりは明るい。船内から見た窓はただ暗く、黒を切り抜いたかのようで、じっと目を凝らしてようやく仄かな月明かりが判別できるかどうかといったところだった。綺麗と言われてもよくわからない。
「ただの窓にしか見えないが」
「いいや、そんなことはない。どうか頼むよ。今夜が最後なんだ。明朝には、この船は航海を終えるだろう。人間はみな船を降りる。クリスマスの飾りもすっかり片付けられる。この身の末路も、もちろん分かっているとも」
声は穏やかにそう言った。数多のオーナメントを重たげに纏うその枝葉は、造りものではなく、どうやら生きていた。青々とした細い葉はそれでも静かに終わりつつあり、木の下には抜け落ちた葉が何枚も散らばっていた。伐られたモミを数週間だけ長らえさせる吸水用のスタンドは、鮮やかなポインセチアの群れと、リボンを掛けられた空のギフトボックスとで、上手に人目から隠されていた。フェイクのツリーなら来年また倉庫から取り出されるだろうが、生木のツリーに先はない。明日にはゴミとして回収され、燃やされるか、バークチップに加工されるかするのだろう。
変な夢だな、ともう一度思いながら、ピアノ弾きは遠くの窓に手を伸ばした。触れられやしない距離だった。実際には一抱えほどもある大きな窓は、ここから見るとおもちゃのように小さく、容易に手中に収まった。
手のひらにコロンと重みが乗った。
「ありがとう」
微笑がやわく囁いた。ピアノ弾きはまじまじと、手のひらに現れた蒼い球体を見つめた。その表層は光沢を帯び、ラウンジの景色が映りこみ、ツリーの光が映りこみ、それは月光に浸る夜の海にほんのすこしだけ似ていた。それは何の変哲もないクリスマス・オーナメントだった。モミの小枝に引っ掛けるための紐まで、お誂え向きに備わっていた。金色の紐を摘みあげれば、ピアノ弾きの指先でオーナメントはゆらりと揺れた。
「船旅のあいだ、たくさんの人間に同じ頼みごとをした。気づかず通り過ぎてしまう者がほとんどだったけれど、何人かはきみのように足を止め、あの窓を取ってきてくれた。同じものはふたつとなかった。やあ、嬉しいな。ほんとうに素敵な窓だ。手頃な枝に掛けてくれるかい」
言われるがまま、ピアノ弾きはツリーに歩みより、空いていた枝のひとつにオーナメントを掛けてやった。飾られたオーナメントのほとんどは、一目で既製品とわかるものばかりだったが、いくつか、奇妙に色味の深いものも混じっていた。真夜中の蒼い窓、夕暮れの紅い窓、真昼の青い窓、夜明けの淡い空と海。
「おやすみ、やさしいひと。良い夢を。メリークリスマス」
それきり声は沈黙した。
なにを言っても声はもう応えなかった。
ピアノ弾きはぼんやりと船内をさまよい、どう歩いたものか、気がついたときには自分の客室に帰りついていた。なんとかベッドに潜りこんだが、眠りは浅かった。何度も寝返りを打ち、たいして時間も経たないうちに、目が覚めてしまった。
部屋はうっすらと明るかった。寝不足と疲労で頭が痛んだ。水平線から昇ったばかりの朝が、窓枠を淡く色づけていた。
ベッドに横たわったままピアノ弾きは手を伸ばした。海をゆく小さな部屋の小さな丸窓は、十二月の朝に凍え、硬く、確かで、平らかだった。
「綺麗な窓だ」
呟いて、ピアノ弾きは瞼を閉じた。
樹木と金属から形成された優美な楽器に、樹脂を纏った木片に、日夜触れてきた指先が、窓枠を撫で、毛布の上にぱたりと落ちた。ゆるく開かれたその手を、室内のかすかな風の流れが通りぬけていった。遠くで汽笛が響いた。クリスマスを終えた船が、まもなく港に帰りつく。
Profile
風野 湊 / 小説家
1990年生まれ。現在の代表作は、熱帯雨林の樹木変身譚『すべての樹木は光』(2020)、即興小説に基づく短編集『永遠の不在をめぐる』(2014)など。幻想の質感が伴う風景描写を得意とする。
▼著者の寄稿文一覧
https://atsea.day/blogs/profile/minato-kazano
▼小説のモチーフになった作品
「丸窓からの風景」写真=中村風詩人
https://atsea.day/products/view-from-ship-01
