短編小説「光のウエハース」

寄稿者:風野湊(小説家)

 
 土産物屋の軒先で、美しい黒のポストカードと目が合った。
 それは異質な絵葉書だった。風光明媚な観光地でも、きらびやかな夜景でもなく、どこで撮影されたものなのかもよくわからない。裏面にもキャプションはない。写っていたのはただひとつ、どことも知れない暗闇に、格子窓から差す光の形だった。


 1枚50セントの安い絵葉書だ。粗雑な印刷で、黒に潜むニュアンスもほとんど見分けられない。ここは室内なのか、室外なのか。砂を敷き詰めたようにも、ざらりとしたコンクリートのようにも見える。曖昧な黒の只中に落ちる光は、それでも確かに美しく、そしてどこか懐かしかった。
 いつか、子どもの頃に、同じ光を見たことがなかったろうか。
 たとえば古びた物置で、あるいは祖父母の家の屋根裏部屋で、もしくは誰もいなくなった放課後の旧校舎で、わたしはその光を見たのではなかったろうか。
 ひんやりと冷たく澱んだ空気に、無数の埃がきらきらと輝きながら舞いあがる。細く開いた扉の向こう、その光景に、幼いわたしは目を奪われた。室内に外気が流れこみ、入れ替わりに溢れた空気が頬に触れ、黴と埃の匂いに咳込みそうになるのを、懸命に堪えたのを覚えている。
 明るい時間にも関わらず、部屋は夜のように暗かった。たったひとつ、高い位置に作られた格子窓だけが光源だった。床には白く埃が積もり、てんてんとした小さな足跡を際立たせていた。——足跡と、足跡の持ち主と、どちらが先に目に入ったのだったか。ほとんど同時だったかもしれない。格子窓の形を写す四角い光のほとりには、見たこともない生きものが蹲っていた。
 それは幼いわたしよりも一回り小さな身体と、猫のようにふわふわな脚と、人間によく似た両腕を持っていた。人間の腕よりもずっと細く長い両腕は柳枝のようによく撓り、右手には白い指が6本、左手には黒い指が4本あった。その生きものは両手をひらめかせると、床に伸びる光の端を摘んだ。さりさりと乾いた音を立てながら、光は表層から薄く引き剥がされてゆき、やがて、風にそよぐ繊細な絹織物のような一枚の箔が現れた。
 幼いわたしは仰天した。光に触れられないことくらい、子どもでも知っている。それなのに、その不思議な生きものは、光を指先で摘みあげてしまったのだ。
 その生きものはわたしが見つめていることにも気づかず、至極満足そうに目を細め、光の端切れを丹念に小さく折り畳むと、端っこから齧りはじめた。それが、幼心にどれほど美味しそうに見えたことか。ほんのりと淡く輝く、午後の日差しのウエハース。わたしの胃が羨望の音を立ててしまったのも、無理からぬことだった。
 生きものがパッと振りむいた。口元から光が欠片となって零れおちた。わたしは立ち尽くし、次に瞬きをしたら何も居なくなっているに違いないと思った。——だが、何度か目を瞬いても、それは居なくならなかった。扉の細い隙間越しに、小首を傾げながらわたしを見ていた。やがて幼いわたしがおずおずと笑いかけると、それはふっと微笑を浮かべ、そして、半分に折ったウエハースを、わたしに差しだしてくれたのではなかったか。
 絵葉書の陳列ラックが軋みながら回転し、わたしは我に返った。
 黒い絵葉書を手に佇むわたしの隣で、恋人たちが笑いさざめきながら、華やかな色彩の絵葉書を何枚か抜き取ってゆく。レジに向かう二人の後ろ姿を見送る。わたしの心が過去に飛んでいたのは、ほんの数十秒前後だったのだろう。
 絵葉書に呼び起こされた光景は、記憶に極めて近しい手触りをしていた。
 だが現実には、こんなことは、起こらなかったはずだ。
 わたしは、妖精か小鬼を思わせる不思議な生きものと出会ったことなどないし、格子窓の光が差しこむ小部屋を覗いたこともない。
 存在しない幻の思い出。
 だが、わたしは既にその幻を愛してしまっていた。ただの白昼夢として忘れてしまうには忍びなかった。それは幻ではあったが、間違いなく、大切な旅の思い出だった。記憶のよすがに、わたしは黒の絵葉書を一枚だけ買い求めた。
 50セントの絵葉書は、年月を経るごとに退色していった。光と影の境界がほどけてゆき、いつかは何が写っていたのかも定かではなくなる。絵葉書の元になった写真が、いつどこで誰によって撮影されたのかも知らないまま、何十年も大切にしているなんて、実に奇妙な話だろう。それでも、美しく曖昧な黒の向こうで、誰かが手渡してくれた光の幻を、わたしは今でも忘れずにいる。




Profile

風野 湊 / 小説家

1990年生まれ。現在の代表作は、熱帯雨林の樹木変身譚『すべての樹木は光』(2020)、即興小説に基づく短編集『永遠の不在をめぐる』(2014)など。幻想の質感が伴う風景描写を得意とする。

 

今回の小説のモチーフになった作品
「時の瞑想」
https://atsea.day/products/meditation

写真=中村風詩人