「メメント・モリ」 写真に潜む死を想い、生と向き合う

「死」は不思議である。誰にでも訪れるものであるのに、「死」という言葉は何だか扱いにくい。日常であまり触れてはいけないもの、という空気を感じることも少なくない。

「明日死んでしまうかもしれないのだから、毎日でも毎分でも、大切な人には惜しみなくその気持ちを伝えたい」。私は今までの人生でそう思いながら生きてきた。きっとこれからもその部分においては変わらないだろう。しかし、この「明日死んでしまうかもしれないのだから」という言葉を口にすると、「何かあったの?大丈夫?」「そんなネガティブに考えなくても…」と心配されてしまうことがある(決して物悲しい雰囲気で話しているわけではない)。

ここでのそれはどちらかというとポジティブな意味で使っているのだが、やはり「死」という言葉の強さ(喪失感の連想)がそうさせるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、以前『メメント・モリと写真』というタイトルが付けられた展示に足を運んだことを思い出した。

メメント・モリとは、「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」「死を想え」という意味を持つラテン語。言葉の起源は古代ローマにまで遡り、当時は警句として用いられていたそうだ。


展示は3章構成で「メメント・モリ」と写真との関係性を見つめ直していくものだった。
アメリカの作家、批評家のスーザン・ソンタグの言葉を引用しながら、第一章が始まる。

写真はすべて死を連想させるもの(メメント・モリ)である。写真を撮ることは他人の(あるいは物の)死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。

これはソンタグが『写真論』という著書の中で述べた言葉だが、考えてみれば、写真というメディアは「過去のある一瞬を切り取る」という点で既に「死(限られた時間)」が潜んでいるものであると言える。シャッターを押したその瞬間、被写体は戻れない過去になっている。そう、彼が主張するように「写真はすべてメメント・モリである」のだ。

会場には、ロバート・キャパやW.ユージン・スミスらに代表される戦場の写真、セバスチャン・サルガドによる過酷な環境で生きる人々、マリオ・ジャコメッリによるホスピスで過ごす人々の写真が並ぶ。それらは、生物が決して逃れることのできない死の存在、無常感を鑑賞者に突きつけていく。
ヨゼフ・スデック《身廊と下側の眺め、聖ヴィート大聖堂の新しい部分の南側》〈聖ヴィトゥス〉より 1928年 ゼラチン・シルバー・プリント 東京都写真美術館蔵
 


「生と死」「死と写真」についての思考を深める一助として特に印象深く記憶に残っているのは、最終章で展示されていたヨゼフ・スデックの写真だ。写しとられた光の束。その美しさは一見すると「死」と無縁のようにも思えるが、それは写真を通して死を想うことが同義であるかのようにも思わせてくれる。


『メメント・モリ』

生きている者すべてに訪れる最期を意識させるこの言葉は、古代ローマから現代に至るまで様々な人々の思想に強く影響を与えている。

今や身近となった「写真」というメディアに潜む死を見つめ、その運命を考えること、そして限られた時間を生きていることや幸せについて想いを巡らせることで、私たちはより深く「生」と向き合うことができるのかもしれない。




文=帆志麻彩