2 - 音の浮力〜フィンランドの森と湖が持つ不思議な力
寄稿者:中村風詩人(写真家)
森の入口は徐行をしていなければ通り過ぎてしまうほどの小さな駐車場があるだけだった。岩に打ち付けられた案内板はフィンランド語で何が書いてあるか分からない。僕は隣にある色あせた地図を頼りに黄色の矢印についていくことにした。すると入口から5分もしないうちに想像できない深さの森が迎えてくれた。杉や白樺といった見慣れた針葉樹林が中心だが、表面は苔むしていてこの森が遙か昔から大切にされていることが伝わってくる。一歩一歩、味わい深いものを噛みしめるようにゆっくりと歩みを進めた。深い森とは真摯に向き合うことが写真家としての礼儀だと感じ、向かい合う全てのシャッターに三脚を使った。写真には手持ちでサッと撮るべき写真と、じっくりと一枚に時間をかける写真とがあるのだ。この時は無論、後者だった。森はめまぐるしく景色を変えることは無かった。それでも丘を越えて景色が開ける瞬間には常に感動があった。時折でてくる池や立ち枯れの木々、まるで生き物のように暴れる木の根…。その全てをできる限り丁寧に撮影した。普段良い景色に出会うと何枚も同じような景色を量産してしまいがちだが、この森の中では一枚として同じ木を撮らないようにした。つまり一本の木に対して一枚しか撮らない、それならば一番の角度から捉えたい。すると、一本一本の木をじっくり見るようになった。220 の中判フィルムを入れ替える度に20回シャッターを切る、その一枚として同じ木は写っていない。20枚の写真には20本の木が写った。夢中でシャッターを切った。フィルムで言えば5本、枚数にして100枚、木々にして約80本を撮影した。歩き始めて数時間が経過した頃、森の中でピアノの音が聞こえてきた。音楽というよりはひとつひとつの音が時折聞こえてくるような、ゆっくりとしたオルゴールのようなリズム、だがその音色はしっかりとピアノだった。地図には建物などは無かったはずだが...。
木立を抜けると一際大きな湖に出た。一目みただけでは大きいのか小さいのか、 遠近感が分からなくなるような不思議な湖だった。湖面は驚くほど静かで雲や景色を映す鏡のように穏やかだった。その瞬間、ふっと身体が軽くなった気がした。疲れを忘れるようなものではない、まるで水中で感じる中性浮力のような身体が浮かんでいる感覚だった。湖畔に古びた桟橋を見つけた。おそらく今は使われておらず、両側を支える支柱は斜めになっている。桟橋はまるで別世界に続く入口のようだった。相変わらずピアノの音は聞こえている。丁寧にまた一枚シャッターを切った。湖畔にあった小屋には色あせた絵が飾ってあった。両手を広げるよりも大きなそれは、絵画というより壁画に近い迫力だった。森の中には様々な生き物がいて、動物はもちろん鳥や、なぜか大きな昆虫の姿もあった。この森がこの町の人々に昔から愛されていることが伝わってくる温かみのある絵だった。僕はその小屋の近くで火をおこしパンを焼いた。昨日買っておいた大きなソーセージを挟み自家製のホットドックを作る。あたりに肉の香りが充満して、先の絵に登場するような獣が出てこないかわずかに不安になったが、食欲が勝っている。そういえば朝から何も口にしていない。いつの間にかピアノの音は止み、パチパチという火のはじける音だけが聞こえていた。獣におびえたのが嘘のようにあたりは静寂に包まれていた。こうして百数十枚の写真を撮り終えて、今朝に見た森の入り口へと戻ってきた。 一日を通して誰一人として会うことが無かった。駐車場にポツンと置き忘れたようにブラウンのワーゲンゴルフが一台、僕のレンタカーが停まっていた。今まで訪れたどの森よりも静かで深く神秘的だった。それからの予定していたフィンランド滞在は、全て同じ宿と同じ森の往復を繰り返して過ごした。通い慣れた林道で休むところ変え、毎日湖畔で暮れる夕日を眺めた。帰国をしてから一通りの写真をプリントし、一本一本の木ともう一度丁寧に向かい合った。順番には迷うことなく自然とプリントの並べ方が決まった。ナラ材の額縁に入れ、会場にはピアノの音を流す。僕はこの展示を「音の浮力〜フィンランドの森」と名付けて東京都美術館のグループ展、世田谷のギャラリーで個展として発表した。あの森の中で聞いたピアノの音、浮かび上がるような感覚、そのひとつひとつを再現しようとする試みだった。
あれから数年間が経つが音の浮力は経験していない。次にまたあの森に入るなら秋がいい、と思っている。
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1:音の浮力〜フィンランドの森と湖が持つ不思議な力 – In the forests and lakes, felt like floating.