効率の海に「私」という錨を下ろす ― エッセイの系譜と、書く理由についての考察
写真・文=帆志麻彩

先日、友人との会話の中で一つの問いをもらいました。それは、「エッセイは何のために読むのか(書くのか)」というもの。
事実を整理し、客観的に情報を伝えるライティングに従事するその人にとって、目的地の見えない "個人の感情の記録" は、霧の中を彷徨うように頼りなく映るのかもしれません。確かに、効率や正解が求められる現代において、エッセイは最短距離を指し示しもしなければ、今すぐ生活を便利にする答えを差し出すこともありません。
私はその問いをもらったとき、「私にとってエッセイを読むことは、美術館やギャラリーで作品に触れる感覚に近い」と答えました。芸術を「形や色による生への試み」とするならば、エッセイは「言葉による生への試み」であると考えていたからです。
では、なぜ私たちは千年以上も前からこの「曖昧なもの」を書き、読み続けてきたのでしょうか。その系譜を辿ることは、表現せずにはいられない人間の本質を問うことと同義なのではないか。そんな仮説を立てました。
今日はこの興味深い問いにヒントをもらい、「書く」ということについて、私なりに考察してみようと思います。
「試みる」という自由の誕生
エッセイの起源を辿ると、16世紀のフランス人、ミシェル・ド・モンテーニュに行き着きます。彼は、1580年に出版された自分の著作に『エセー(Essais)』と名付けました。その語源は、フランス語の動詞 "essayer"(試みる)と、名詞 "essai"(試み)にあります。
それまでの書き物が、神や哲学といった「正解」を語るための完成された器であったのに対し、モンテーニュは「人間とは何か」について、自分自身を観察対象として探索や思索を繰り返し、記録していきました。その内容は、今日食べたもの、死への恐怖、あるいは庭の木々を眺める時間など多岐にわたります。移ろいゆく未完成な自分を言葉に定着させようとする試行錯誤は、キャンバスに向き合う画家が、自らの内面を色や形として定着させようとする営みに近いものを感じます。これが、西洋のエッセイの誕生です。
日本ではどうでしょうか。モンテーニュから遡ること500年以上前。平安時代中期の1000年頃、清少納言は『枕草子』を書き上げました。国語の教科書でもお馴染みですね。彼女はまさに「をかし」という自分だけの物差しで世界を切り取っています。モンテーニュが「人間とは何か」という哲学的な問いを深めたのに対し、清少納言は世俗のルールではなく、個人の感性を世界の中心に据えました。
「美しい瞬間に心が動く、その気持ちを誰かと分かち合いたい」。そんな人間の根源的な願いを、彼女は世界最古の随筆として鮮やかに書き留めたのです。そして、その精神は、千年以上の時を超えて現代の書き手、私たちへと緩やかに繋がっています。
事実と真実のあいだ
客観的なデータを整理した記事が「ここで何が起きているのか」という事実を伝えるものだとしたら、エッセイは「それがその人にどう見えたか」という真実を伝えるものです。
画家がキャンバスに向かうとき、報道カメラマンのように事実を写そうとはしません。例えば、ゴッホが描いたうねるような夜空は、客観的な「事実」ではありませんでしたが、彼にとってはそれこそが「真実」の光景でした。エッセイにおける主観的な視点も、こうした「世界の再解釈」という芸術的営みと同じ地平にあるのだと私は思っています。
同じ「雨」という事実も、ある人にとっては「憂鬱な予兆」であり、ある人にとっては「懐かしい思い出の匂い」かもしれません。私たちは、効率化の過程で削ぎ落とされてしまうノイズ (その人の体温や声の震え、名付けようのない感情)の中にこそ、人間らしさがあることを本能的に知っています。だからこそ、他者の極めて私的な記録を読むことは、ギャラリーで作品を鑑賞するように、自分自身の視点を柔らかくほぐし、世界の解像度を少しずつ更新していく体験と言えるのではないでしょうか。
人はなぜ書くのか
人はなぜ「書く」という孤独な営みを止めないのか。その問いについて考えてみると、そこにはやはり、洞窟壁画を描いた古代人から続く"生存のための根源的な欲求"があるのだと思います。それは「呼吸」のようでもあり、「祈り」のようでもあるのだろうと。
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「忘れる」ことへの抵抗: 数万年前の洞窟に残された手形や動物の絵は、当時の人々にとって「私はここにいた」「私たちはこれを見た」という生きた証でした。書くこともまた、二度と戻らない一瞬を時間の奔流から救い出し、自分という存在の錨を下ろそうとする、人間特有の抵抗なのではないでしょうか。
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自己との対話: 画家は描き始める前に完成した作品のすべてを知っているわけではありません。一筆置くことで次の色が呼び寄せられるように、言葉を紡ぐプロセスそのものが、自分でも気付かなかった「本当の想い」を現像します。作りながら自分を発見していく自己生産的な性質は、あらゆる創作活動に共通する醍醐味です。書くという行為そのものが、新しい自分を発見するプロセスなのです(これは私自身が書きながらよく感じていることでもあります)。
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静かな祈り: 暗い洞窟に描かれた絵が、数万年後の私たちの心を震わせることがあるように、個人の内側に深く潜って見つけ出した言葉もまた、長い年月を経て、どこかで見知らぬ誰かの羅針盤となることもあるでしょう。自分を灯すために掲げた小さな光が、結果として誰かの夜道を照らす。そんな、芸術が持つ「祈り」に似た循環が、エッセイには許されているのだと思います。
まとめ
事実を整理し翻訳した記事が "地図" だとしたら、エッセイはその場所を歩いた人の "日記" のようなもの。地図があれば迷わずに目的地に辿り着くことができますが、誰かの手記を読めば、その角のパン屋さんからどれほど良い香りがしたかや、冷たい風が吹いたときの心細さがわかります。事実を整理する筆と、感情を編み上げる筆。その両方があって初めて、私たちは世界を立体的に捉えることができる。私は今回の問いに対して、そう結論付けました。
人はただ生きるだけでは飽き足らず、そこに自分なりの意味を見出そうとします。その「試み(Essay)」の積み重ねこそが、私たちの人生を、豊かな物語へと昇華させてくれるのだと思うのです。そして、少し壮大ではありますが、「書く」という行為を「人類の表現の系譜の一つ」として捉えてみると、私たちは人生をより愛おしく感じられるのではないでしょうか。
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