カフェラテ発祥の地。世界最古の『カフェ・フローリアン』で歴史に思いを馳せる旅|ヴェネツィア、サン・マルコ広場
写真・文=帆志麻彩

アドリア海の女王と謳われる、美しい水の都ヴェネツィア。迷路のような運河を抜け、サン・マルコ広場に辿り着くと、そこには世界中の旅人が憧れる特別な場所が静かに佇んでいる。
1720年にオープンした世界最古のカフェ『カフェ・フローリアン』。雨上がりのヴェネツィアに吹く、少しだけ湿り気を帯びた風に背中を押されるようにして、私はその重厚な扉をそっと押した。
日本が江戸時代であった頃、カフェ文化の頂点にいたヴェネツィア

案内されたテーブルに腰を下ろし、私は迷わずカフェラテ(€12)を注文した。ここは、カフェラテという飲みものが生まれた場所。そう聞いただけで、胸の奥が小さく高鳴る。
運ばれてきたカップに手を伸ばすとき、きっと日本人なら誰もが遠い物語に思いを馳せることになるだろう。この店がオープンした1720年、日本はまだ江戸時代。徳川吉宗による享保の改革が行われていた頃だ。ご先祖さまたちが限定された対外交流の中にいた時代に、ヴェネツィアの人々はすでにこの広場で、現在と変わらぬように珈琲とミルクが溶け合うこの淡いベージュの液体を楽しんでいたのである。
当時、珈琲は「東方の黒い飲み物」と呼ばれ、エキゾチックで高貴な嗜好品であった 。海上貿易で栄えたヴェネツィアだからこそ手にすることのできた、知性と悦楽の象徴。300年以上も前から変わらないこの場所で、かつての貴族たちも私たちと同じようにカフェラテを味わっていたのかと思うと、この一杯がまるで長い歴史の重みそのもののように感じられた。
偉人たちが愛した「サロン」という名の小さな宇宙

カフェ・フローリアンの魅力は、その歴史の古さだけではない。店内に設えられたいくつもの小部屋は、それぞれが独立した小さな宇宙のようだ。
「偉人の間」には世界中の名士たちの肖像が並び、「東洋の間」や「中国の間」には異国への憧れが美しく飾られている。鏡のくすみや天井の煤けた色合いにさえ、ここで語られたであろう無数の密談や、甘い恋の囁きがしっとりと染み付いている気がした。
かつてこの椅子には、稀代のプレイボーイとして知られるカサノヴァや、文豪ゲーテ、バイロン、そして画家のモネも腰を下ろしたという。当時のカフェとしては極めて珍しく女性の入店が認められていたからこそ、ここは知的な会話と誘惑が交差する、ヴェネツィアの中でも自由な場所だったのだ。
もっとも、現在の店内は私を含めた世界中からの観光客で溢れかえっていた。かつてのサロンのような大人の落ち着いた空気があるかと言えば決してそうではないだろう。むしろ、多国籍な話し声が重なり合う、賑やかで喧騒に満ちた場所だ。けれど、それだけでこの場所を通り過ぎてしまうのはもったいないことだと思う。
耳に届く賑やかさを一度そっと心の外に置いて、想像力を自由に遊ばせてみる。そうして目の前の装飾や鏡の奥に視線を凝らせば、喧騒の隙間から、かつての文豪たちが紙をめくる音や、ドレスが擦れる微かな音が聞こえてくるかもしれない。
究極のカフェラテ体験

現代の私たちにとって、カフェラテを飲むという行為は日常のありふれた一コマに過ぎない。しかし、ここフローリアンで提供されるそれは、まるでおごそかな儀式に近い。
銀のトレイに乗せられ、燕尾服をまとった給仕が運んでくる特別な一杯。別添えのミルクがエスプレッソと出会う瞬間、柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。正直に言えば、私はとりたてて珈琲やカフェラテに詳しいわけではない。その味も、どこか懐かしく、拍子抜けするほどに普通のカフェラテだった。けれど、一口含めば、ミルクの甘みの向こう側に、ヴェネツィアが歩んできた激動の歴史のほろ苦さが、隠し味として顔を出すような気がしてくる。
普通のカフェラテを頼むにしては、少し背伸びをするお値段。今のレートなら尚のこと。けれど、ここで手に入るのは単なる飲みものではない。300年の時を経た天井画を仰ぎ、カサノヴァと同じ椅子に座り、世界で最も美しいと言われる広場を眺める。そんな特権的な時間そのものなのだと思う。
効率やコストパフォーマンスばかりを追いかける毎日への、優雅な反逆。私たちは、そうした「無駄の美学」の中にこそ、人生を彩る真の豊かさがあることを知っている。
ヴェネツィアの記憶を味わう
日が沈み、広場の灯りが石畳にぽうっと滲み出す頃、カフェ・フローリアンは一層その輝きを増す。店内にかけられた大きな鏡には、今を生きる私たちの姿と、時を超えてそこに留まり続ける過去の面影が重なり合って映し出されているようだ。
「ずっとこの場所に来てみたかった」
その願いが叶うとき、私たちはただ目的地に辿り着いただけでなく、自分もまたヴェネツィアの長い歴史を編む一本の糸になったような、そんな不思議な感覚を覚える。
もしあなたがヴェネツィアを訪れる日が来たら、ぜひ、サン・マルコ広場の回廊を歩いてみてほしい。そして、世界で最も歴史ある扉を叩き、江戸時代から続く時の流れを、一杯のカフェラテとともにゆっくりと味わってみてほしい。
住所:P.za San Marco, 57, 30124 Venezia VE, Italy
(ヴェネツィア、サン・マルコ広場の南側回廊内)
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公式HP
【訪れる際のポイント】
・ドレスコード
正式なドレスコードはありませんが、歴史的な空間に合わせてスマートカジュアル程度の装いがふさわしいでしょう。
・おすすめの時間帯
① 朝一番(9時〜10時)
広場がまだ静かな時間。店内の装飾をゆっくりと鑑賞したい場合に最適。
② 夕暮れ時
広場でオーケストラの生演奏が始まる時間。テラス席に座れば、ヴェネツィアのロマンティックな瞬間を特等席で味わうことができます。※テラス席で生演奏が行われている時間帯に座ると、飲食代とは別にミュージック・チャージ(およそ6ユーロ前後)が加算されます。
・お土産
店内ではフローリアンオリジナルの紅茶やコーヒー豆、美しいデザインのチョコレートボックスが販売されているので、自分への、あるいは大切な人へのお土産としておすすめです。
