エストニア・キフヌ島行きの船の話

寄稿者:堀内彩香(写真家)

なぜエストニアに行こうと思い立ったかはもう明確には思い出せない。
ただ記憶の片隅に、ストライプの民族衣装のスカートで手を繋いで踊る美しい姿が残っていた。どこかで偶然見た写真だったか。可愛らしいそのイメージに惹かれて、バルト海に向かった。

パルヌというバルト海に面した港町から、フェリーでキフヌ島という小さな島へ。
週に1本だけ運航される船に乗り込んだのは、よく晴れた朝だった。
その船が週に1本しか運行しないというのは、後から知ったことだ。船着場に着く前、私が乗っていたバスは見事に港を通り過ぎ(いつも降りる人がいないので通りもしなかったのだ)、海から離れていく景色を見た私は慌ててバスの運転手に伝えると、「はは、ごめんごめん」とばかりに笑い飛ばしながら港に戻ってくれた。こちらはあんまり笑い事じゃあないんだけど。船内に乗り込むと、10人ほどの客が乗っていた。船はゆっくり岸を離れて、湾を進んでいく。
陽の当たる席に座っている2人のおばあちゃんのおしゃべりが尽きない。何を話しているのかは全く分からないのだけれど、知らない言語がBGMのように通り過ぎていく音は、結構心地よい。
しばらく経って船に乗れたことに安堵していると、先ほどおしゃべりしていたうちのひとりは別の席で編み物を始めている。
バルト地方に来てから、編み物をする女性とよく遭遇する。カフェの片隅で、道端のベンチに腰掛けて、ゆっくりと湾を進むフェリーの窓際で。私は女性にそっと話しかける。編んでいる柄にもそれぞれ意味があるらしい。ぎこちない英語で会話をする。ここがちょっと難しいのよ、と彼女は繊細な柄を指して説明してくれる。この先誰かが使うものに、ひと針ひと針心を込めて。大切な誰かのためにずっとそれを繰り返してきたであろう彼女の指の皺を、私は美しいと思った。もう島に到着するという頃、編み物をしていた先程の女性は言う。
「この船に乗ってるの、あなた以外はみんな島の人よ」 その言葉に驚いて辺りを見回すと、確かにみんな顔見知りのようだ。全然気づかなかった。
船の中の穏やかな空気、そういうことだったのか。


やがて船が島の桟橋に近づくと、人々が立ち上がり、荷物を手に取り始めた。編み物の彼女も、おしゃべりのあと居眠りしていたおばあちゃんも、それぞれの足取りで島の土を踏む準備をしている。

私もゆっくりと立ち上がり、その光景をずっと見つめていた。

 



Profile

堀内彩香 / 写真家

1989年生まれ。新潟県出身。
大学で写真とデザインを学んだ後、スタジオに入社。
カメラマン羽田誠氏のアシスタントを経て、2016年独立。
好きなものは旅行、博物館、石、街の散歩と裁縫。

https://www.horiuchiayaka.com/