短編小説「人間には見えない灯り」

寄稿者:風野湊(小説家)

    
 午後二時には夜が来た。
 雪深い針葉樹林の奥深く、ひとの目には見えないものが、冬の盛りを祝うため輪になって踊り明かしていた。
 彼らは古くから森とともに在り、ひとりひとりが針葉樹——トウヒやアカマツのひとつひとつを、長きにわたって住処としていた。この地において、冬の太陽は日に四時間ほどしか姿を見せない。朝と夕方と夜のみを繰りかえす日々にも針葉樹は茂り、枝葉に雪を重く纏う。ときにはヘラジカの群れに樹皮を喰い削がれながら辛抱強く春を待つ樹木たちと異なり、樹木に住まう見えない彼らは概して陽気で、気まぐれで、吹雪のように冷酷で、風のように悪戯好きだった。彼らは夏の繚乱も冬の静謐も等しく愛した。

 踊りの輪がにわかに湧き立った。
 暗い木立の向こうで小さな灯りが危なっかしく揺れる。人間の旅人がひとり、彼らの悪戯に惑わされ、森の奥まで迷いこんできたのだ。
 ほんの数歩、踏み固められた雪道から外れただけなのに、どうして元の道がまるきり見つからなくなってしまったのか、旅人にはわからない。彼らの悪戯によって方向と時間の感覚を狂わされたためだとは、旅人は夢にも思わない。ただ、膝よりも深く積もった雪の中を、一歩ずつ、足を引き抜き、また踏み抜いて、よろよろと歩くばかりだった。見えないものたちは、旅人のまわりを楽しげに、兎のように跳ねまわった。

 おいで、
 さあおいで、
 冬の祝いだ。

 囃したてる彼らの声は、針葉樹を揺らす風の唸りとしか聞こえない。
 旅人は荒く息を吐き、額に滲んだ汗を拭おうとした。腕を掲げた拍子に、ちょうど足元にいた見えないものに、灯りがぶつかった。人間の手には何の手応えもなかったが、ぶつけられた方は雪の上にひっくり返り、たちまち腹を立てた。枝を振るうような風切り音を旅人が聞いたときにはもう、鈍い痛みとともに手から灯りが跳ね飛ばされていた。灯りは弧を描いて雪の中に落ちた。小さな光はすぐに掻き消えた。
 旅人は夜の底で呆然と立ち尽くした。やがて目が慣れるにつれて、あたりは仄かな青に包まれた。日没後のわずかな薄明による、雪の反照だった。
 旅人は急いで雪に膝をつき、手探りで灯りを見つけようとした。刻々と薄明は消え去り、雪もまた闇に沈んでゆく。夜が深まってゆく。自身の手さえぼんやりとしか見えなくなり、無理を悟った旅人はふらつきながら立ち上がると、木立の間から空を見上げた。空には明るい星がいくつも現れていた。

「暗いのは今だけだ」
 旅人は震える声で自分に言い聞かせた。
「月が昇れば見える」

 そして闇雲に歩きだしたが、すぐに自身の足跡を踏んで戻ってくると、傍にあったトウヒの木にしがみついた。
 旅人はもう、その場から動こうとしなかった。初めのうちこそ、見えないものたちは旅人を取り囲み、不思議そうに見やったり、枝葉から雪を落としてちょっかいを掛けたりしたが、もとより気まぐれな彼らのこと、だんだん人間に興味を失い、銘々に森の奥へ去っていった。旅人が縋りつくトウヒの木を住処にしているものだけが、後に残った。

 後に残った見えないものは、旅人の肩に駆け登り、その顔をじっと覗きこんだ。
 旅人はきつく目を閉じ、硬く冷たいトウヒの木肌に額を押しつけ、深呼吸を繰りかえしていた。吐息が白く樹皮の紋様に沿って流れる。目を閉じたまま泣いてはいけない、睫毛が凍りついてしまう、と旅人に忠告する者はいなかった。トウヒの枝葉はときおり風に揺れて、雪を散らした。
 いつしか空は銀砂を撒いたように星で溢れた。深雪は星灯りで仄かに輝き、夜を駆けるフクロウやキツネには充分な光を与えたが、人間の目にはとても足りず、旅人は月を待ち続けた。焦りと恐れから早鐘を打っていた心臓は、堅固なトウヒに触れているうちにすこしずつ落ちついて、代わりに柔らかな眠気が忍びよってきた。旅人は凍える足を懸命に踏み替え、歌い、祈った。早く月が昇るように、灯りを見つけられるように、どうにか無事に帰れるように。

 震える旅人の肩にはまだ、見えないものが座っていた。
 この人間、いつまでここにいるつもりか、というようなことを、見えないものは考えた。自分の住処にいつまでも人間がしがみついているのも困る。
 灯りをやれば出ていくだろうか。
 気まぐれな思いつきを、見えないものはすぐ実行に移した。すばやくトウヒに飛び移り、枝葉から雪を掬いとると、人間には聞きとれない声で魔法の歌を唱えた。そして頭上を見上げた旅人の瞳に、星明かりに輝く雪を思いきり突っこんだ。
 旅人はとっさに瞼を閉じたが雪のいくらかは目に入り、ついでに鼻にも口にも入り、トウヒの香りを宿した雪はするりと涙の膜に溶けこんだ。旅人は咽せながら雪を払い、涙に滲んだ目であたりを見回した。

 世界は一変していた。
 薄明がよみがえり、空は澄んだ紺青に包まれ、瞬きの度に夜が拭い去られてゆく。地上の雪も白々として、小さな獣の足跡まで見える。夜の底では一塊のシルエットにしか見えなかった針葉樹たちも、青い枝葉の先々までを見分けられるようになり、森の彼方まで視界が開ける。「満月だ」と旅人は叫び、安堵のあまりよろめいて転んだ。樹上で誰かが笑ったような気がした。

 視界はもはや十分に明るく、足元を照らさなくても何の問題もなかった。先ほど無くした灯りも雪の中からすぐに見つけられた。
 現在地がどこにせよ、来た方向に戻れば帰れる。夜空には無数の星がひしめき、北極星を見つけるにも苦労するほどだったが、やがて旅人は方角を定め、まっすぐに歩き出した。途中で一度だけ振り返り、繋ぎ止めてくれた一本のトウヒに礼を呟いた。

 見えないものたちは森の奥に去り、旅人の歩みを阻むものはもういない。
 じきに木立の向こうから町の光が姿を見せる。旅人は拍子抜けして、どうしてあれほど彷徨っても出られなかったのかを不思議に思うが、喜びと安堵に圧倒されてそんな疑問は忘れてしまう。深い雪を蹴飛ばすように進み、一気に森を抜ける。旅人の歓声が森の静寂を裂き、近くの枝に留まっていたフクロウが迷惑げに飛び立った。

 雪原にはもう道が見えている。満月の夜のように明るい視界に助けられ、満月に救われたと思いこんだまま、旅人はもうすぐ道に辿りつく。月光から生まれる煌々とした青い影が雪原のどこにもないことに、旅人はとうとう気がつかない。星明かりの淡い陰影が柔らかに雪原を包みこむ、うつくしい新月の夜だった。

Profile

風野 湊 / 小説家

1990年生まれ。現在の代表作は、熱帯雨林の樹木変身譚『すべての樹木は光』(2020)、即興小説に基づく短編集『永遠の不在をめぐる』(2014)など。幻想の質感が伴う風景描写を得意とする。

 

▼小説のモチーフになった作品
「Finnish forest - d」
https://atsea.day/products/finnishforest-d