短編小説「やさしい汽笛の鳴り響く」

寄稿者:風野湊(小説家)


 昔からくりかえし見る夢がある。
 静まり返った大海原を、ひとりきりで歩く夢。
 夢というのは不思議なもので、わたしは海に沈むこともなく、裸足で水面を歩いている。足跡のかわりに波紋が立ち、すぐに消える。足裏が濡れる感覚もない。夢なのでどうにも判然としない。
 見渡すかぎり、一面の空と海。
 風もなく、波は眠りについている。
 周囲には誰の気配もない。
 いや、違う——気配はある。わたしが佇む水面の下に。
 海に手をついて覗きこめば、銀色にひるがえる魚群の背鰭も、彼らを追って旋回するイルカたちの泡の軌跡も、海流のまにまに漂う海月の傘も見えた。満ち満ちる生命にわたしは手を伸ばすのだけれど、どうしても海の中には加われなくて、ひとりで途方に暮れている。そんな夢。どこまで探しても、どこまで歩いてみても、ただ晴れ澄む空と静かな海しか見つからず、迷子のような心地で目を覚ます。雑然と散らかった自室が目に入り、ほっとする。

 だから海にはすこし苦手意識があった。
 だから、あの日、海の写真展に行ったのは、ほんとうに偶然だった。
 友人との待ち合わせの時間になって、急用で一時間ほど遅れるという謝罪の連絡が届き、わたしは手頃なカフェで時間を潰すべく真冬の街を歩いていた。祝日の人混みを避けようと表通りから一本外れた路地に入ったとき、ふとギャラリーの展示が目に留まった。ガラス張りのドアの向こう、遠目には穏やかな色彩の抽象画のように見えたけれど、数歩近づいて海の写真だと気づいた。わたしはしばらく逡巡した後、偶然に招かれるまま、そっとギャラリーに入った。

 観覧する人たちの間を縫って、飾られた写真を一枚ずつ見てまわった。
 さまざまな時間の、さまざまな光に染まった海。どの写真も美しかった。波打ち際、水面、船影。鯨たち。島の稜線。
 そのうちの一枚の前で、わたしは立ち止まった。
 十五分ほど動かずにいたのではないかと思う。わたしを呼びとめたのは、太陽を蝋燭のように水平線へ灯した、凪の写真だった。薄紫の光に包まれ、眠りに落ちたかのような海。日没なのか、それとも夜明けなのかも、ここにいるわたしにはわからない。昼と夜の狭間で時は静止していた。その写真はわたしの内に入りこみ、はじめからそこにあったかのように、ぴたりと収まった。    
 写真の傍には、ささやかなキャプションと購入可能である印が小さく貼られていた。
 わたしはギャラリーを三周した。どの展示を見ても先ほどの写真がちらついて離れず、四周目に差しかかる前に意を決して、ギャラリーのスタッフに声をかけた。
 ギャラリーの展示品を買うなんて生まれて初めてだ。わたしは覚束ない手でサインを済ませた。展示期間が終われば郵送してもらえるらしい。
 ギャラリーを出てからようやく携帯電話の存在を思いだし、とっくに到着していた友人に謝罪の連絡を入れた。早足で街を横切るにつれ、足元でコツコツと靴が鳴る。遠慮のない北風が耳たぶを冷やしてゆく。マフラーをきつく巻きなおすと、吐息が舞い、午後の日差しに柔く輝いた。道ゆくひとは皆、楽しげに笑いさざめいていた。ギャラリーの静寂に慣れた後だからか、それとも写真を買い求めた高揚のためだろうか、街の喧騒が普段よりもことさら鮮やかに感じられた。偶然が贈ってくれた喜びに、わたしは口元をマフラーに隠してひとり笑った。

 二週間後、丁寧に梱包された写真が、我が家に届けられた。
 木製フレームに縁取られたうつくしい凪を抱え、どの壁に飾るのがふさわしいだろうかと考えながら、自宅のあちこちを歩きまわった。日当たりの良い窓辺、すこし薄暗い玄関、観葉植物と隣合わせにできるリビング。部屋に差す光によって、写真が見せる表情もすこしずつ変わるように思えた。
 さんざん迷ってから、結局、自室の壁に飾った。枕元に程近い、ベッドの中からでも眺められる位置に。ランプの光に浮かびあがる、わたしの夢によく似た、けれどずっとやわらかな、淡い紫の海。その夜は、写真を眺めながら眠りについた。

 いつもの夢を見た。
 わたしは静まり返った海の上に立っていた。
 周囲には誰もいない。いつもなら途方に暮れるところだけれど、今夜は穏やかな心地のまま、散歩を楽しむような足取りで、ぱしゃりぱしゃりと海のおもてを踏んだ。足裏から波紋が生まれ、すぐに溶けてゆく。記憶にある限りはじめて、夢の中のわたしは——なにかを探すためではなく——ただ眺めるためだけに、夢の海と空を見やった。水平線のすぐそばで太陽があたたかな光を放ち、小さな雲の切れ端を黄金色に照らしていた。海の色は空の光だった。うっすらと霞む水平線の向こう、太陽の反対側には夜が広がっている。紫、濃紺、群青、菫を混ぜあわせ、黒と灰をすこし垂らしたような夜、地球の影。なにかが視界の端によぎり、はっとして見上げれば、まばらに星の灯る空を数羽の海鳥が渡ってゆくのが見えた。わたしが立っているのは日没ではなく夜明けの海なのかもしれなかった。

 ふと、遠くから、汽笛が聞こえたような気がした。
 見渡してみても、凪いだ海にはひとつの船影もない。わたしは一瞬の残響を頼りに、早足で歩きはじめた。昼と夜の狭間で静止した夢の海を、なんの躊躇いもなく、たったひとりでまっすぐに。
 鏡のようにも見える夢の水面は、けれど冷たくも硬くもない。踏めば穏やかに形を変える。けっしてわたしを受け入れてはくれず、けれど傷つけて拒絶もしない。足裏のやわらかな皮膚をただ風のように撫でるだけ。
 いつしかわたしは走っていた。波紋を散らす足音だけが夢の海に響きわたった。夢だから、どれほど走っても息は切れない。太陽は水平線の上に留まったまま、わたしの行手を照らしていた。

 やがて、水平線の向こうに、ぽつりと光が滲んだ。一粒の星のようだったそれは、徐々に大きくなり、色彩と輪郭を帯びた。巡行客船だった。煙突から白い蒸気を漂わせ、こちらに近づいてくる。
 もう走る必要はなかった。わたしは海に立ちつくした。夜の彼方から太陽に向かって航行するその船は、時折チカチカと瞬いた。船首と甲板に灯りが見えた。あの船からわたしは見えるのだろうか。ここにいるわたしは幻のようなもので、船上から眺めても大海原には何も見えないのかもしれない。どちらでも構わなかった。もうわたしはひとりきりではなかった。
 わたしはゆっくりと右腕を掲げ、大きく手を振った。
 ボォ、と低く汽笛が応えた。船は見上げるほどに大きかった。真っ白な船体に太陽が反射して、目が眩む。かすかに聞こえる音楽は、甲板の音楽家たちが乗客のために奏でているのだろうか。
 並ぶ客室の窓のひとつ、ベランダ付きのその部屋に、とうとう人間の姿が見えた。その誰かは窓を開けると、ベランダへ滑りでて、水平線上の太陽をよく眺めようとするかのように、眼前へ手をかざした。遠目ながらうっすらと、三脚とカメラを携えているのがわかった。ああ、と夢の中のわたしはようやく腑に落ちて、空と海の狭間で微笑んだ。
 あなたが連れてきてくれたのか。この船を。わたしの夢の中に。

 目が覚めると、まだ夜明け前だった。薄暗い部屋の中で、わたしはゆっくり上体を起こし、枕元の写真を見上げた。夢と現実が混ざりあうような、なんだか不思議な心地だった。寝ぼけ眼のまま、わたしは欠伸をひとつして、もう一度布団にもぐった。
 もう海の夢は見なかった。その日も、その後も。それからずっと。

 わたしはそれが嬉しくて、同時にすこし寂しくて、枕元の写真とともに、また夢に会える日を待っている。あの静かな海に立ち尽くしても、もう怖くはないだろうから。




Profile

風野 湊 / 小説家

1990年生まれ。現在の代表作は、熱帯雨林の樹木変身譚『すべての樹木は光』(2020)、即興小説に基づく短編集『永遠の不在をめぐる』(2014)など。幻想の質感が伴う風景描写を得意とする。

 

今回の小説のモチーフになった作品
「水平線の祈り」
https://atsea.day/products/ocean-horizon